祖父について調べるうちにそもそも日系人とは?などの疑問が浮かんだことで、見学した海外移住資料館。館内は無料で見学可能。設立20周年を記念して今年の4月にリニューアルされました。
前回から引き続き、次に向かったのはハワイやアメリカ本土など海外への移住が本格的に始まった頃に関する展示コーナー。
まずは持ち物。本格化したのは明治中期からですが当時海外へ渡る際に様々な持ち物を日本から持っていたようです。
パスポートや現金はもちろんですが、生活するため洗面用具、食器や炊事道具などもトランクに詰めていき、当時は港から乗船しました。
他には分厚い辞書や渡航案内書。またラジオやカメラ。家族写真など。情報交換をするための謄写版も持参したそうです。現代ではスマホ一台あればほとんど対応できるので、こういったところから今の生活の便利さを改めて実感します。
別の展示では渡航に必要な手続きについて書いてありました。
当時、パスポートを取得するのはかなり大変だったようです。
1. 自筆の願書を本人が住んでいる村・町に提出
2. 居住地の駐在所の巡査が該当者と家族の身元を調査し、「問題なし」と判断される
3. 郡長へ申請書が送られ、ふたたび書類審査
4. 審査が通った後に県知事に送られ、さらに県庁の係官による審査
5. 審査が問題なく通れば海外渡航許可証が発行
6. 外務省に審査で認められると旅券下付許可が下りる
ひたすら審査の繰り返し…。
気が遠くなりそうな手続きですが、出稼ぎのため多くの人たちがこれらをパスして、海外へ渡っていったのだそうです。
(1890年頃から移住斡旋業者が申請を代行するようになった)
移住者が増え続けた理由
移民として縁もゆかりもない海外でいきなり暮らすことに不安はあると思います。ましてや現代とはちがい、現地の情報も限られます。
このような状況もあり、移住者を支えていたのが旅館やホテルのコミュニティ。
国外行きの船が止まる横浜や神戸の港周辺には、各地方の地名を使った宿が立ち並んでいたといいます。
ちなみに戦前、戦後も含めて最も移住者が多い県は広島県。
港周辺には「広島屋」「芸州館」といった旅館が営業しており、広島出身者が宿を経営していたのだとか。地方から出てきた移住者がホッとできる場所でもありました。
さらに日本の出港地だけでなく、移住先のサンフランシスコ、シアトル、バンクーバーなどでも日本人が経営する宿が多かったそうで、日本の宿と連絡を取り合い、移住者をサポートしていたという話もあります。宿泊の手配だけでなく就職の斡旋も行っていたようです。
そういえば、祖父も「バンクーバーの宿で働いていた。」とのことでしたが、もしかしたら、そこで日本からの移住者の支援をしていたのかもしれません。
日本からの移住者が途絶えることなく増え続けた大きな理由はもう一つあるようです。
「呼び寄せ」といい、文字通り家族を日本から呼び寄せるということ。ハワイやアメリカ西海岸で農業を営み、現地での生活を安定させた人は親族を呼び寄せることもあったようです。
その際に海へ渡った子どもや兄弟は出稼ぎの恩恵(出稼ぎで得たお金を送り、家族は日本の生活を安定させることができた)によって日本では高い水準の教育を受けることができたとのこと。
高い教育を受けた子どもや兄弟が移住先で暮らすようになったことで、日本人の移民社会が発展したとも言われています。
父の話によれば、「祖父家族(親や兄弟)に限らず、南米に出稼ぎに行った親戚もいた。」とのこと。
この人たちにとっても、移住支援者の存在が大きかったのかもしれません。