心を伝えるのは声や言葉だけでなく手話や絵、音楽などもあります。自由にのびのびとその楽しみを分かち合い、各地で繰り広げている門秀彦さんの創作活動に触れるとコミュニケーションの可能性は無限大と感じます。TALKING HANDSに込める意味とは?ご自身の子育てについてもお聞きしました。
門 秀彦(かど ひでひこ)
アーティスト。1971年生まれ、長崎県長崎市出身。ろう者(聴覚障がい)の両親を持つ健聴者。両親との手話コミュニケーションの補足として絵を描き始め、その後、独学で絵を学び、壁画、イベントや路上でライブペインティングを始める。個展や国内外の学校、カフェ、野外音楽フェス等でのライブペインティング、ワークショップ、講演の他、手話アートブック「RINGBELLS(ぶんか社)」、エッセイ「世界がこんなに騒がしい日には(ジャイブ)」、絵本「1+1=1(地球兄弟プロジェクト)」「ハンドトークジラファン(小学館)」などの著作があり、NHK「みんなの手話」ではアニメーション作品の企画作画、宮本亜門、佐野元春、HY等のアートワークを手掛けるなど、創作は多岐に渡る。スターバックスのタンブラーやFire-Kingマグカップのデザイン、キットカットハロウィンパッケージデザインなど、クリエイターとしての才能も評価されている。
現在NHK総合・Eテレにて放送中の「キャラとおたまじゃくし島」の共同原作・キャラクターデザインも手掛けている。
絵を描くことは日常のひとこま。
――門さんのご活躍は共通の友人から以前からお聞きしていました。ご両親が聴覚障がいをお持ちの環境で幼い頃から、伝えるための術をいろいろ身につけていらしたと思います。絵は独学とか?
絵って基本的に好き放題描くものですから独学です。テクニックとは、大工さんならのこぎりの使い方や釘の打ち方を上手くやるにはどうすればいいか?を知るもの。知らなくてもできるけれど、効率よく一番きれいにできる方法を先人から教わるということじゃないかと思います。でも、好きで描き続けていれば、好きな描きかたになっていくものです。だから、僕の場合は「何歳から絵を始めました」というのが無いのです。
――もう生活している環境そのものの中に、絵を描く行為が欠かせなかったということですか?
絵といってもキャンバスに描くようなものではなくて、最初からみんなと一緒で「落書き」です。鉛筆で描いたり、ボールペンで描いたり、クレヨンで描いたり。そこからつながっていますから、どこから始まったか?というのがわからない。大学で美術系専門コースに進んだ人はそこからってことになるかもしれませんが、僕の場合はそれが無いので、どこからということになるのかな。
――絵だけでなく漫画や、立体ものなど作ること全般がお好きでいらした?
コマ割してセリフも入れる漫画も描いていましたが、セリフやストーリーなしで一枚にびっしり描いていました。粘土やLEGOで遊ぶのも好きでした。「一番得意なのは絵です」…という意識はなかった。ろう者の家ではテーブルの上に常に紙と鉛筆があってすぐ描ける状態。他の子と違うとすれば、会話のために地図をよく描いていました。学校からの帰りにどこへ寄って遊んできたのか地図で説明していました。拙い手話で通じないなら、まず絵を描くわけです。
――手話ができるかどうか以前に、イメージを共有するための絵ですね。
ろう者の家では、子どもがろう者とコミュニケーションを取るためにろう手話サークル等に通わせたりする親もいます。うちはテーラーを営んでいて、父は紳士服、母は婦人服の職人でした。僕には兄がいますが、兄貴は手話がうまかったけれど、あまり家にいなくて外に遊びに行くタイプでした。僕は放課後だけ外でしたが、家に帰ってくるとずっと家で遊んでいた。図工は好きでしたが、成績は良くなかった。先生に褒められるのはいつも別の子で、僕は独自に描いていたので、教室に貼りだされるのは常に違う子の絵。僕は「この子は絵がうまい!」と言われて育ったわけでない。褒められたくて描くというより、日常的に絵を描いていたし、描くのが好きでした。
何かを目指して今があるわけじゃない。
――感情を爆発させたり、癇癪を起すようなことはなかったのでは?
保育園時代、僕はしゃべるのがあまり得意ではなかった。しゃべれないか?というと、しゃべれるんですけれど。一対一とか、ゆっくりしゃべるとか、自分のテンポではしゃべっていました。でも、わぁわぁいう子ども達の脈略のない会話に合わせられなくて(笑)僕はじっと聴いてしまう。ひとつずつ答えようとしても、もう違う話になっていたり、みんなバラバラのことを言っていたり……で、輪に入れない。楽しそうなのはわかるから、そこに入りたい。仲良くなりたいけれどテンポについてゆけない。
――ああ、なんかその気持ちはすごくわかります。大人になってからもそういうの、特にグループ大好きな女子にはありがち(笑)。私もちょっと変わった子でしたから。
僕は仲良くなりたい子がいると、その子の傍で絵を描きました。「あ、門君、何描いているの?」と気にしてもらって、「じゃあこれ」と描いた絵をあげる。そういうことをやっていたのをすごく覚えています。他の子が集まってくると次々に描いてあげた。その場では間に合わなくなって、家に帰ってからも描いて、友達にあげる絵を描きまくる忙しい小学生(笑)。絵を描くのはノートとかじゃなくて、広告チラシの裏とかでしたね。
――思春期に親子喧嘩とか、門さん自身の葛藤はありました?
兄貴は気が短かったので、親父と手話で喧嘩していたようですが、僕はドヨンとしていたせいかなかった。もちろん叱られるようなことはありましたが、親への反発はなかった。むしろその当時は学校の先生や周りの大人にぶつけていました。小学校時代、帰り道に友達と3人でスクールゾーンではない道を通って、後からそれが先生に知られて呼び出されて殴られたりして。でも、僕だけ「おまえは親がろう者だから同情されると思っているんだろう」と言われて。その先生に対して『考え方がおかしい』と冷静に思いました。親がろう者でかわいそう…と言われるのも気持ち悪かった。かわいそうと決めつけられるのが嫌で。特別に頑張っていると言われるのも嫌でしたが、言い返したらダメなんだろうと感じていました。大人になった今なら、『そういうことこそ差別だ』と言えますが、その時はモヤモヤして言い返せなかった。
――聴こえる聴こえないどちらの立場もわかる門さんは、子どもの頃から感じることは多かったと思います。絵本を作るようになったのは何がきっかけでしたか?
きっかけと呼べるような特別なものはありません。絵本以外にもいろいろやっていますが、僕は何かを目指してやったことがない。唯一、似顔絵とか、その当時流行りのキャラクターとかを描いて友達にあげて仲良くなった。こういうことを仕事にしようという意識もなかった。憧れの絵描きさんがいて目指すなんてのもなかった。
楽しいことを見つけたら手放すな!
――門さんの作品2冊持っていますが、静と動の世界。どちらも味わい深くてじんわり沁みます。「1+1=1」はどんな想いで作られたのでしょうか。
「1+1=1」は20代の終わり頃から考えていたイメージで、人の人生を映画にした場合、台詞や演技を削ぎ落し究極にシンプルにしていった時、映画は紙芝居のようになるのでは?と。「個」から始まって「出会い」「連帯」「愛」「家族」となり、「エゴ」「孤立」「気づき」「再生」へと続いていくお話です。文章はなく絵と数字だけ。文章がないので読み手自身の頭に浮かんだお話をつけてもらう。すると読み手の経験や考え方に添った物語になる。もっと絵の枚数も描いていましたが、どんどん削ぎ落しました。その頃、海外で子ども達と一緒に絵を描くワークショップを行う機会があって、アフリカやアジアなどのろう学校や一般の学校、フリースクールなどを訪問することがありました。英語もウガンダ語も手話もわからない。でも絵はわかる。表情や仕草でも気持ちはわかる。この本をどこの国の子ども達も翻訳なしで読めるように、とタイトルや本文は数字にしたんです。
――謎解きみたいな数式ですよね。では、もう一冊の「ハンドトークジラファン」はカラフルで賑やかで楽しいキャラクターがたくさん登場する物語ですが、これは?
1つ目の理由は僕の両親から僕がうまれて、僕の子どもにつながっているのを何かの形にして残そうと。いつまで生きられるかわからないし、何かに残したいと思ったのです。大人になってからやっとわかる、というものより子どもの時にわかるようなものを。2つ目の理由は、それまでにも手話をデザインして世の中に出していたのですが、手話を勉強している人たちではなく、手話を知らない人たちに向けて作りたかった。手話は「言葉を超えたコミュニケーション」の「入口」。でも、出口は手話ではなく、顔の表情やジェスチャーや筆談、さらには絵やダンスなどいろいろある。その「出口」がすごいんだよ!と一般の人たちに知らせたくて作りました。個人の門秀彦というひとりの人間から発すると重たくなってしまう気がしたので、キャラクターを通してメッセージを送ろうと。アンパンマンやドラえもんも、作者よりもキャラクターが際立っているでしょう?受け取る側がリラックスしてくれるように、キャラを前面に出して自分を後ろにしました。
――手話を知らない、ろう者を知らない人への思い。確かにおもしろい!これからはどんな目論見がありますか?
年を重ねると経験も増え、それによって自分を見つけてくれる人も変わります。縁がつながった人とそこでまた何か生みだしていけたらと現実的に思っています。僕はできるかわからない遠い未来のことを考えるタイプではないので、今年来年で何かできることないか?と。現在、いろんな事を考えていますが、その中の一つを言えば、去年、はじめてテレビアニメをやりました。その経験があって、今、次のことを考えるようになっています。まだ内緒ですけど。
――門さんもまだ小さなお子さんを育てていらっしゃいますが、習い事を考える子育て中の同世代にどんなメッセージを送りたいですか?
例えば、有名な画家たちだけが特殊で優れた才能があるわけではなくて、画家でない人でも素晴らしい絵を描く人はいっぱいいます。「好きなこと」で「飯を食う」のは一見楽しそうですが、騙されるな!と言いたい(笑)。「好きなこと」と「生きていくための仕事」は別物です。「仕事」なんて事は、状況と環境、身体的能力や特長、大人数と接するのが好きな人、少数の人とひっそりと過ごしたい人…そういうことによって選べばいい。「仕事」が燃料だとしたら、「好きなこと」は人生を楽しくし、飯をうまくするもの。
歌が好きな子は「歌手を目指さなければならない」ではなく、ただただ飽きるまで歌い続ければいい。好きなことをやり続けることと、食べていくことは別。好きな事で食べていく人も稀にいるというだけ。大抵の子どもは飽きっぽいですが、それで僕はいいと思います。次々と興味あることが変わっていくわけで、それはしょうがない。だから状況と環境が許す限り何でもやりたいようにさせます。楽しいと思えるものが見つかるまでは退屈だと思いますが、見つけたら簡単に手放すなと言いたいですね。親とか先生に「それやり続けても仕事にはならないよ」なんて言われても。
編集後記
――ありがとうございました!絵を描くことが生活に欠かせないツールだった門さん。好きなことと仕事の関係性については大いに共感でした。私事で恐縮ですが小学校で歴代初の紅組応援団(チアは別にいた)で男子に紛れエールを送ってた私を「あらぁ、あの子、女子なのにねぇ…」と眉を顰めていたどこかのおばさんの話を卒業文集に『女の子が応援団やったらいけませんか?』と書いた私(笑)。好きでやっていたこと。まるで今も変わっていません。そういう大人がもっと増えたらいいなぁ~と幸せな気持ちになった取材でした。今後の活動も楽しみにしています!