新地町を出て、県境を通過し宮城県の山元町に向かいました。
山元町は他の市町村と異なり、観光協会がありません。
それも影響してか、語り部ガイドは他よりも遅れ、情報発信することも大変苦労されたそうです。
今回のツアーで現地情報を知り、伝えることで少しでも復興に役立てればと思い、行程に組み込みました。
語り部ガイドの方とは山元町役場で待ち合わせ。まずは、町内の北に位置する新山下駅周辺を視察しました。
山元町は町全域の37.2%が浸水。全壊した家屋は2217棟(うち流失は1013棟)と甚大な被害を受けました。町にあるJRの2駅もともに津波で崩壊しており、現在は高架化された新たな駅で再開されています。
旧駅舎、線路があった場所は盛り土によって高くされた県道をつくるため工事が行われています。
旧山下駅から南下し、海沿いの道を通ります。かさ上げ工事や農場整備が行われており、車通りも少ない場所です。先ほどと同様、この場所には家を建てられないため、農地や家畜所ができるそうです。
そこからさらに南に行き旧坂元駅に近い場所で見えてきたのは、きれいに整備された畑とその入口に置かれている慰霊碑でした。
写真だとわかりづらいのですが、ここにはかつて自動車学校がありました。残念ながら教習生26名、職員11名の方々が亡くなっています。震災があった3月はちょうど免許学校の一番忙しい時期だったと思います。
地震が発生し、送迎バスは学校に長い間待機していたそうです。
ガイドの方が仰っていたことです。
「地震後の館内、屋外よりもラジオを聴ける車やバスがもっとも津波情報を得やすい状況だったはず。」
「ここは県道よりも海側なので、県道が完成すると今よりももっと目に触れられる機会がなくなってしまう。」
「残されたのは慰霊碑だけ。自分たちが語り継がないと風化されてしまう。」
学校は海岸から1キロも満たない場所にあるため、一刻も早く生徒をバスに乗せて高台あるいはそれぞれの家に帰すことが最善と考えられますが、それが実行されなかったことが悔やまれます。
自動車学校からさらに南下し、次に向かったのは旧中浜小学校です。
この小学校も海沿いにありますが、当時学校にいた生徒全員を含む、職員、近くの住民など90名が津波から生還できました。
地震後、学校が受け取った情報では津波到達まであと10分しかないという状況でした。
震災前に定められていたマニュアルでは高台にある坂元中学校に避難することになっていましたが、歩いて20分の距離にあります。マニュアル通りにいけば、避難中に津波に遭遇してしまう可能性大でした。
そんな中で学校が考えたのは、校舎の最上部にある屋根裏倉庫に避難するという選択。結果的に、この部分だけが津波の衝撃を受けずに済んだのです。
ただガイドの方いわく、その倉庫は学校の授業等使われた備品等を収納するための場所であり、災害時の備蓄品などはなかったそうです。水、食料がない上、まともな防寒具もない中で一晩を明かし、翌朝ヘリコプターでみな救助されました。
学校にかかわらず、多くの人はできるだけ高台に逃げるという選択を考える中、校舎に留まるというのはとても勇気のいる判断だったと思います。
マニュアルを頭に置きつつも、その時、その状況で最善な避難方法を考えられること。そのために事前に避難をイメージしておくことや、生活している場所をよく知っておくことが重要だと、この話を聞いて感じました。
話を聞いた後は実際に校舎を見てまわりました。1階部分は職員室や校長室などがあったそうなのですが、説明を受けるとわかるものの、ほとんど元々何があったのかわからないほどの状況です。
現在は校舎の中には入れないのですが、遺構として残し将来的には屋根裏倉庫にも見学にできるようになるとのことです。
ちなみに、この日は台風の影響により海が荒れ、一時は高波に警戒するよう発表されていました。
この学校を見学する際に車を敷地内に停めたのですが、その際ガイドの方が
「前向き駐車ではなく車は後ろ向きで停めてほしい」
と言いました。
言われた瞬間はなぜなのかよくわかっていなかったのですが、次の言葉でその意味がわかりました。
「すぐに逃げられるように」
ガイドの方のように危機意識を常に持っておくことが、万一の震災時にも大事なのだと改めて思えた一言でした。
山元町役場に戻り最後に向かったのは敷地内にある、ふるさと伝承館。
本館も見ておくべき施設なのですが、それよりもガイドさんがぜひ見てほしいと言っていたのが本館の入り口横に設けられている、被災写真返却会場です。
ガイドさんいわく「ここはメディアにもほとんど紹介されていない場所」なのだそうです。
震災後、ガレキに埋もれていた写真を回収し、それを一枚ずつ元通りにして保管。家族写真や子供の写真などさまざまな人の思い出の品が並べられているのですが、
ここにあるということは引き取り手が見つかっていない写真ということです。
写真は人生の記録であり、その人が生きた証でもあります。
一人でも多くの人にこの活動を知ってもらい、一枚でも多く引き取り手が見つかってほしいと思います。
ガイドさんとお別れし、隣町の亘理町へ。昼食をとるため荒浜にぎわい回廊商店街に訪れました。
亘理町も沿岸部を中心に津波で大きな被害を受けました。
まちの賑わいを再生させるため、さまざまなジャンルのお店が入っており海の幸をいただくことができます。
亘理の名物、はらこめしやほっき貝は旬が秋冬のため今回お目にかかれなかったことは残念ですが、ヒラメやカニをぜいたくに使った海鮮料理に大満足でした。