石材所のすぐ上には三陸自動車道が通っています。
震災6日前に開通したこの高速道路を利用し、子ども達は通りかかったダンプやトラックに乗って安全な場所へ避難をしました。
この道は別名『命の道』と呼ばれているそうです。
現在は釜石市立釜石東中学校、釜石市立鵜住居小学校は場所を高台に移し、新校舎が建っています。
どこからでも避難できるよう、いたるところに階段がありました。
〇 防災センター
釜石市鵜住居(うのすまい)町では、子ども達の生還が語られる中、防災センターでは多くの方が亡くなったそうです。
理由は下記だといわれています。
・防災センターは津波の避難には適していないが、『防災センター』という名前から避難場所と勘違いした住人が集まった。
・もともと防災センターは避難場所にはなっていなかったが、住民の希望から訓練の際は避難場所となっていた。
多くの住民が避難した防災センターは、津波にのまれて沢山の方が命を落とした場所です。
観光ボランティアガイド会のFさんは、幸いにもご家族は無事だったそうですが、家族を亡くさない人が震災について伝えていいのかという葛藤があったそうです。
しかし、誰かが伝えていかなければいけない。
そんな時に、遺族の方に語り部を続けてほしいと言われて、今も続けているそうです。
〇 根浜海水浴場
鵜住居(うのすまい)町には役1.5kmの美しい砂浜の海水浴場ありました。
しかし津波による流出と地盤沈下により、遠浅の砂浜は姿を消してしまいました。
現在では人工的に砂を入れて再生させる働きがされているそうです。
海水浴場周辺の住民の方々は、景観を優先するために防潮堤を作らず、現在は高台へ住まいを移されたとのことでした。
〇 釜石市役所と周辺
市役所本庁の下が電源室となっており、津波の浸水により市役所が機能しない状況となったそうです。
一度高台に避難してたけれど、あまりに寒いためジャンパーをとりに戻って、津波にあい亡くなった方もいたそうです。
高台に逃げたら、警報が解除されるまで戻ってはいけないとおっしゃっていました。
沿岸部には新たに防波堤が作られています。
釜石には以前、沿岸部に警察署や学校などがありました。
ガイドのFさんは、「海の近くに大切な建物を作るのが、そもそもおかしいのではないか。」とおっしゃっていたのが印象的です。
2日目の夕食は食べることができるのか
お話を聞き終え、夕食を食べに『はまゆり飲食店街』へ。
お昼にラーメンを食べた商店街へ再び向かいます。お目当ての『魚てい』へ行きますが、どこにも店舗がありません・・・。
川を挟んだ反対の岸に移転して、新店舗で営業していました。
新鮮な魚介類が食べられる、おすすめのお食事処です。
駅からも徒歩で行けますよ!!
今夜の宿泊は、駅の横にあるビジネスホテルです。
近くに巨大なお土産屋さん『シープラザ釜石』もありおすすめ!!
3日目は陸前高田市観光物産協会のNさんのお話
ホテルを出て今日は陸前高田で、陸前高田市観光物産協会のNさんからお話を伺いました。
移動中の窓からは、かさ上げ工事の風景。
Nさんがおっしゃるには、7年たってもかさ上げをしており、家が建てられないそう。
時間がかかりすぎて人々に心の変化が起き、家を建てる人も減っているとのことでした。
〇 陸前高田市立気仙中学校【震災遺構】
気仙川すぐ脇にある『気仙中学校』は、屋上の高さよりもさらに高い津波がきました。
もともとの避難場所では危険だと判断し、さらに高い所へ移動したことで、生徒と教職員合わせた93名全員が無事に避難できたそうです。
この中学校は震災遺構として、今後残していくとのお話でした。
〇 移動中の景色
陸前高田には古川沼があり、海水の流入を止めていた川原川水門がありました。
現在では解体工事が進められています。
Nさんは、他にもやるべきことがあるのに、解体を優先させる必要があるのだろうか、という疑問の声を上げていらっしゃいました。
〇 道の駅高田松原 タピック45【震災遺構】
国道45号に面する道の駅『タピック45』。
ここは3名の方が逃げた場所ですが、14.5mの高さまできた津波からどのように逃げたのでしょうか。
この建物の屋上は階段状でイベントの観覧席となっています。
上部まで登って、何とか津波から逃れることができたそうです。
東日本大震災のあの日、大津波をみんなで生きのびた釜石の子どもたちのドキュメント。