山陽新幹線徳山駅から徒歩5分、フェリー埠頭の入口に人間魚雷「回天」がある。映画の撮影のためにつくられた精巧なレプリカだ。レプリカとはいえ、真っ黒く塗られた細長いその物体を前にすると、どんな言葉であらわせばいいのか分からなくなる。
人間魚雷「回天」は、文字通り魚雷(海中をスクリューで走行し敵の船を爆破する兵器)に人間が乗り込む特攻兵器。アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)末期、日本軍は空、海、陸を問わず多くの自爆攻撃(特攻)を行った。有名な神風特攻は航空機による体当たり攻撃で、1944年(昭和19年)11月のフィリピンの戦いで急遽編成され、攻撃が実施された。
自己犠牲を伴う自爆的な攻撃は、日本のみならずアメリカ軍はじめ世界中の多くの国で行われてきた。しかしそれは、被弾や負傷で生還が不可能となった兵士が、自らの意思で体当たりしたもので、軍としての組織的な自爆攻撃は日本の神風特攻がその初めとされる。最初の特攻隊を組織した大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」と述べたように、生還の見込みが皆無の体当たり攻撃は軍の上層部のなかでも否定的な意見の方が多かったのだという。
しかし、人間魚雷は航空機による特攻の1年前には試作が、昭和19年の7月には部隊編成が行われていた。9月1日には、徳山港沖の山口県大津島に回天の訓練基地が開隊され厳しい訓練が始まった。有名な航空特攻が戦闘機である零戦に爆弾を装着して行われた急ごしらえのものだったのに対して、人間魚雷は兵器開発、搭乗員の育成ともに計画的に行われたことは覚えておくべきだろう。
回天は、日本海軍の秘密兵器だった高性能の魚雷に送受席と大型の弾頭を組み合わせた兵器である。直径が61センチしかない魚雷を基にしているため、操縦のための舵やセンサー類は乏しく、通常の潜水艦のような浮沈を調整する機構もほぼないに等しい。居住性などは考慮されていない上、いったん発進すると母艦に戻ることも不可能だった。
大津島では、回天の開発者の一人である黒木博司大尉も訓練中に回天が海底に突き刺さって航行不能となり死亡している。回天は内部からハッチを開いて波除板ごしに外を見ることは可能だったが、攻撃を隠匿するためには潜望鏡深度に潜水し、その深度を維持する必要があった。そのため操縦は非常に困難で、黒木大尉の事故の原因も深度調整にあると考えられる。
終戦までに1,375人が回天の訓練を受けた。戦死者は訓練中の殉職を含めて145人。うち出撃して戦死した者87名、回天で発進して戦死した者49名という。その戦果は給油艦、歩兵揚陸艇、駆逐艦の3隻を沈め、ほか5隻に被害を与えたという(データはWikipediaより)。
真っ黒く塗られた細長いその物体。波除板に描かれているのは「菊水」の紋。天皇のために命を擲って戦った南北朝時代の楠木正成の紋所である。
10代から20代そこそこの若者たちが、この港の沖の大津島で訓練に明け暮れ、ある者は遠く南洋に出撃し、またある者は母艦である潜水艦もろとも海底に消えた。彼らが最期の瞬間を迎えた(あるいは最期を迎える予定だった)黒く細長い物体には、流れに漂う菊の花が描かれていた。天皇のために命を捧げるという物語の表象として。
悲しみ。恐怖。いのり。真っ黒く塗られた細長いその物体を前にすると、どんな言葉であらわせばいいのか分からなくなる。
しかし、涌き出てくるのをとどめることができないのは、怒りだ。やり場のない、誰にもぶつけることのできない怒り。
なぜ死ななければならなかったのか。なぜ死ぬための訓練に明け暮れなければならなかったのか。しかし、それは現代の目から見たときの感想でしかなく、当時の若者たちにとっては、かくあることのほかに人生を見出すことは困難だったのかもしれない。もはや戦争の是非を言っている場合ではなく、戦っている以上勝たねばならない。敗色濃厚となった当時にあっては、自分自身の家族を、大切な人たちを守ることと、敵を破ることは同義だったに違いない。そこには疑念を挟む余地はなかったかもしれない。
波除版に顔を近づけてみる。暗い夜の波が見えてくる。南洋の珊瑚礁の入り江なら、夜光虫も光っているかもしれない。そんな海を翔ていく魚雷と一体化したひとりの人間。波をよけるため、夜光虫の光で敵に悟られないためにハッチを閉めて潜行する。狭くて油臭い艇内。潜望鏡の小さな反射鏡だけで外界と、海原と、地球と、世界とつながっているしかないその場所で思うのは何か。
たぶんそれは、怒りでしかなかっただろう。やる方ない怒り。私には、その先を想像することができない。