息子へ。被災地からの手紙「あざ笑うかのような災害のパターン」

熊本で最初に震度7の地震が起きてから10日後、介護施設の避難所で出会ったおばあさんがこんな話をしてくれた。

家がどうなっているのか分からない不安

「最初の地震が起きたのは、手術で入院していた病院から退院したばかりの時だったんですよ。もう怖くて怖くて、すぐに避難しました。その後にさらに大きな本震でしょう。最初の地震で避難するときには家は倒れていなかったのだけれど、次の地震やその後の余震でどうなってしまったか」

少し耳が遠いということでお話しするのも大変そうだったのだが、地震から10日が過ぎた時点での彼女も不安や心配事について懸命に伝えてくれた。

「何が心配って、自分の家がいまどうなっているかですよ。このとおり自分では見に行けません。見に行ってくれる人もいないし、いつまた大きな地震が来るかもしれないから、誰かに頼む訳にもいかないでしょう」

自分の家がどうなっているのか分からない。避難所を出た後に住むところがあるのかどうかが分からない。だから先のことを考えることすらできない。

本震の後にさらに大きな地震が発生して、本震が前震に訂正される。さらに余震が続く。次にいつまた大きな地震が来ないとも限らない。その不安が、被災地の人々を苦しめる。熊本地震の大きな特徴はここにあるように思う。

どんな被害に備えればいいのか?

東日本大震災の直後、阪神淡路大震災で医療支援を行ったボランティアチームが東北の被災地に急行した。外科的処置を行うための装備を背負い式のパッケージに詰め込んで。それは建物の崩壊で怪我をした人が多かった阪神淡路大震災の教訓をいかしての装備だった。しかし、東北の被災地の避難所や医療機関を尋ね歩いても、その装備がいかされる場面はほとんどなかったという。東北の大震災の直後には、濡れた体を温める毛布や持病薬のニーズの方が大きかったからだと聞いた。

阪神淡路大震災と同じく直下型だった熊本地震。地震の直後には「神戸のような大都市の直下で発生した地震だったら、さらに被害が拡大したでしょう」といった話まで聞かれた。不謹慎ではあるものの、被害の規模で災害の大きさを量ろうとしてしまうのは人間の性のようなものなのかもしれない。しかし、同じ直下型でも21年前の地震と、今年の熊本地震は違う。復旧や再建は阪神淡路大震災や中越地震の時よりもさらに長期化する可能性がある。余震や連動する大規模な地震への不安が大きいからだ。

地震の規模はマグニチュードや震度で計ることはできるが、あくまでも物理的な尺度でしかない。それが引き起こす被害の種類は、発生する場所によって千差万別だ。建物の倒壊、交通網やライフラインの遮断、火災、津波、さらに原子力災害まで、あらゆる危険性を考えなければ、備えることすら覚束ない。

関東大震災で大火災による犠牲が膨大だったことから、「地震・火を消せ」という言葉は長く地震対策のスローガンとされてきた。いまではそれが、かえって危ないとされている。熊本地震では水や食料、赤ちゃんのおむつなどの物資は、1週間ほどで全国から寄せられた。医療チームもすぐに入った。しかし、こころのケアであったり、医療サービスの周知という面では十分だったといえない。

直前の大災害に学んだことが十分にいかされない状況が起きている。災害が人間をあざ笑っているかのように思えてしまうほどだ。

ありきたりな言い方になるが、過去の経験をいかすだけではない工夫や想像力が求められているのだと思う。しかし、それが人間にとってもっとも難しいことだということを忘れないようにしなければ。

交通事故が起きてはじめて信号機が設置される、といった文化の中で長く生きてきた私だからこそなおのことだ。

ビルが傾き、倒壊した神戸市の三宮付近(1995年2月)
津波で破壊された町に残された魚船(南三陸町 2011年12月)
熊本城建造当時の櫓と石垣が崩壊(2016年4月)