「被爆した最後の館長」と呼ばれる畑口實さん(70歳)のお父さんの懐中時計とベルトのバックルは、いま広島平和記念資料館(原爆資料館)に展示されています。
文字盤が読めないほど焼け焦げた懐中時計
展示の説明書きには、簡潔に次のように記されています。
懐中時計とバックル
畑口實氏寄贈
爆心地から1,850m 松原町
広島鉄道局に勤務していた畑口二郎さん(当時31歳)は、勤務先で被爆しました。4日後、二郎さんを捜しに来た妻と兄が、職場付近で倒れていた金庫の下から二郎さんの焼け焦げた懐中時計とバックルを見つけ出し、そばにあった遺骨とともに自宅に持ち帰りました。
引用元:平和記念資料館のキャプションより
見つけ出されたのは二郎さんのご遺体ではなく、「焼け焦げた懐中時計とバックル」、そして「そばにあった遺骨」でした。展示された遺品はこの現実を通して、そこで何が起きたのかを私たちに語りかけてくるようです。
二郎さんの息子の實(みのる)さんは当時、母親のチエノさんのお腹の中にいました。實さんが生まれたのは翌年3月。父親の顔を見たことのない胎内被爆者です。やがて畑中さんは広島市職員となり、1997年から2006年まで平和記念資料館の館長をつとめます。畑中さんは被爆した館長として最後の人になりました。
主要7カ国(G7)外相に届けたい平和の訴え
11日までの日程で広島で開催されている主要7カ国(G7)外相会合では、核保有国の米英仏の外相が初めて広島平和記念資料館を訪問することになっています。これは画期的なことです。
G7の外相たちは、平和記念資料館を訪れて何を感じることでしょう。世界から核兵器をなくそうとする本気の動きは現れるでしょうか。外相会合が開催される前日、毎日新聞が畑中さんの体験を記事にしています。
母は姉2人と畑口さんを育てるため、必死に働いた。親が来ない小学校の運動会はどうしようもなくさみしかった。記憶のない「8月6日」に父を奪われ、翻弄(ほんろう)されたと感じた。胎内被爆者だとは周囲に知らせず、21歳で受け取った被爆者健康手帳は机の奥にしまった。広島市職員になったが、資料館にはほとんど行かなかった。
転機は51歳だった97年。人事異動で原爆資料館の館長に命じられた。海外での核実験のニュースを聞くにつれ、「館長の私が、誰よりも核廃絶を訴えなければならないのではないか」と考えるようになった。父の墓から遺品の懐中時計とバックルを取り出し、海外の要人を案内する時に持ち歩いた。真剣に聞いてくれそうな人には遺品を見せ、父のエピソードを語る。核廃絶への思いが伝わると、「やっていて良かった」と思った。
父親の形見である懐中時計やベルトのバックルは、71年前のあの日、キノコ雲の下で人々がどんなに苦しみながら命を奪われていったのかを示す「証人」です。もう言葉をしゃべることは出来なくても、核兵器の残酷な現実を繰り返し、繰り返し語りかけてくれます。そしてそこにはもうひとつの苦難の物語、大切な人を奪われ、残された人たちの悲痛な、しかし静かな叫びが込められているのです。
平和記念資料館に並べられた数多くの遺品=証人たちの声が、世界の指導者に届くことを祈ります。
「被爆した最後の館長」畑口實さん(70歳)のお父さんの懐中時計とベルトのバックルは、いま広島平和記念資料館(原爆資料館)に展示されています。機会があればぜひご覧になってください。