3.11に東北関東大震災が起こり日本は今、国難に遭遇しています。今から120年ほど遡ること明治時代に私利私欲を捨てモラルを重んじた科学者高峰譲吉の自伝を描いた壮大な物語が映画化され今夏公開します。主人公・高峰を演じる長谷川初範さんは元祖イクメン。しっかり子育てをしてきた父親として、高峰を演じた役者として、これからの時代を生きるTAKAMINEスピリッツについてお聞きしました。
長谷川 初範(はせがわ はつのり)
1955年、北海道生まれ。今村昌平監督創設の日本映画学校卒業後、1978年「飢餓海峡」で刑事役でデビューし脚光を浴びる。その後、多くのテレビドラマや映画に出演。現在公開中の「いのちの山河」では主演を務めている。
虚弱体質を剣道で克服した少年期、映画に没頭した青年期
――長谷川さんは北海道でお育ちになられて、剣道大会で優勝を何度もされている経歴を拝見しました。小さな頃からスポーツがお好きで?
幼稚園から小学2年生頃まで体が弱くて食も細かった。うちの家族は父親を筆頭に4歳下の弟もスポーツ万能で、僕だけなぜか落ちこぼれ(笑)、コンプレックスを持っていました。
でも8歳で剣道を始めて小学4年生から北海道代表として全国大会出場も果たし、体質も精神も変わりました。
――体と心はつながっているんですね。16歳で交換留学生として米国オレゴン州に留学されました。今でこそ高校で留学は珍しくありませんが、当時はとても希少でしたよね。1ドル360円の時代ということで。英語もお好きで独学で勉強を?
僕は剣道を身につけていたから。日本の文化を伝道する第一人者という位置づけでした。他にもお茶やお花、柔道に長けている同世代が留学していました。ちょうどベトナム戦争の時期でホームステイ先の父親は第二次世界大戦で日本と戦ったことのある人で戦利品を家に飾っていた。「日本は原爆を落とされて当然だ。さもなければあの戦争は終わらなかったのだから」と言われても、悔しいことに僕は言い返せるだけの英語力がなかった。理論武装してアメリカの大学で勉強しようと、留学から戻って沖縄問題についての資料を漁ってずっと図書館通い。その代わり大学の受験勉強はしないと決めたので思う存分好きなことを学ぼうと(笑)。ところがアメリカの大学へ行きたかったけれど、父の家業が倒産。それで自分が学べる場は他にどんなところがあるのだろうか?と探すことに。
――それが俳優を志すきっかけとなったのですね。
それで今村昌平監督が校長を務めていた横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)演劇科へ入学しました。それまで周りの教師に僕は肯定されたことがなくて、この出会いによって初めて大人に肯定されました。役者を志すようになりましたがハンパなく極貧生活。1回映画を観ると1食分ご飯を抜かないとならない。パンフレットも買うと翌朝のご飯も抜いた。命がけで映画を観ていました。でも食べなくても素晴らしい作品に触れて、魂が満足すると生きていけた。おかげで74キロあった体重が1年で59キロまで落ちました(笑)。もちろん食べるためにアルバイトもしたけれど主に肉体労働を短期でこなしてましたよ。役者ではなく、バイト中心で戻れなくなってしまうのが嫌だったからね。
――我慢強いですよね。役者を目指す人はたくさんいらしたでしょうけれど、どんな思いで道を歩んでこられましたか?
僕は幼少期に剣道を10年間続けましたから、とりあえず何ごとも10年続けてみないとわからないと思っています。何ごとも積み重ねです。それと18歳でこの道を目指した時、周りの人に言われたことは「一流のものを見なさい」「愛をテーマにしなさい」ということ。映画は思いの強いエネルギー体です。20年、30年先も生き続ける。20代の頃は何を言われているか正直わからなかったけれど、とにかくスポンジみたいにして何でも聞いてみようと。植木だっていい肥料をあげないと芽が出てこない。芽が出ないのは、その時期でないから。僕は20代の頃シャワーのように浴びてきたものが、ようやく50歳過ぎて芽が出始めました。
単なる偉人ではない TAKAMINEの英知 Try try again
――『TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男』では主人公の高峰譲吉を演じられています。ご存知ない方へ知らせるために一言で表すと、どのような人物でしょう?
高峰博士は化学者としてひとつのモラルをもっていました。人々がより豊かな生活で、より幸せになるために尽くしてきたことがたくさんあった。彼の功績にはよく「無冠
の大使」という言葉が添えられるそうです。日本の地位向上に尽くしたから。研究を産業と結びつけて富を生むことを実証して見せ20世紀初頭の世界をリード。日米親善にも心血を注いだ人物です。
――「日本とアメリカの懸け橋」となることを願った私利私欲のない行動はまさに人格者。今回の作品は高峰譲吉の生涯が細かく描かれていますが、役柄に共感された点はどんなところですか?
高峰博士が、あきらめないで挑戦を続けるところですね。僕は役者をやって40歳頃まで全然売れなかった。だから若い頃は、家事も育児も全部やりました。妻にも働いてもらっていましたが、食わせてもらっていた期間が長かった。役者以外の裏方の仕事も結構できちゃうタイプ。自分でもよくわかっているから、これと決めた道は変えなったし、あきらめなかった。そしたら本当に40歳以降になってから役者としてやっと機会に恵まれました。手がけている仕事は違えど、思うように物事が進まなくても高峰博士の心が折れるようなことはなかったのは僕と同じです。
――「これまでも何かを成し遂げようとして簡単に成功したことは一度としてありません。TryTryAgain! 何度でも挑戦しよう!」というセリフが何度か出てきますね。しかし今、3.11に起きた東北大震災で日本は打ちのめされています。この映画を被災地へ届けるとしたらどんなメッセージですか?
未来は化学で変えることができる。津波で被災をされた地域、原子炉事故で被ばくをされている地域…と震災によって東北は大きなダメージを受けました。しかし知恵と英知を使って必ずこの国難は乗り越えられる、ということを申し上げたい。化学は人を幸せにする力がある。その逆も然りですが、今はこの大変な事態を変えることができるのは、人が発明する化学の力だと信じたい。
――化学の力はもちろん大きいのですが、人を救えるのは、やはり人ではないでしょうか。
そうですね。映画の最後のへんで「化学は人を幸せにするために生まれた。しかし、これからの時代はどうなるでしょう」と高峰博士が疑問を投げかけるシーンがあります。ひょっとしたら将来、間違った方向へ行くような気がすると。しかし今日本を思い、胸を衝くようなメッセージがこの映画にあります。僕はこの人物を演じられてとてもうれしかった。演じたというより、高峰博士からのメッセージを人々に伝えた…という感じです。
我が子にはユニークな教育理念をもつ環境を与えた
――元祖イクメン俳優としてお子さんともしっかり関わってこられたそうですね。
僕は母性のカタマリ。女性に母性があるというのは違いますね。子どもと一緒に過ごすことで父親にも母性は生まれてくる。息子は26歳になりますが東京芸大の大学院で「先端芸術」を、具体的には世界中の祭事を研究しています。今は大人になって偉そうにしていますが、彼の幼い頃に食べさせたり寝かせたり一緒に過ごしたのは僕なんだぞと。かわいかったあの子はもういない(笑)。
――息子さんが学者さんの道へ進まれたのは、長谷川さんが自分の好きなテーマを存分に追究されていたDNAを継がれているようですね。
僕は学校の先生が教えてくれることと、自分で調べて得た知識がなんだか違うということに気がついて、常に「先生が正しいのか、自分が正しいのか」と裏付け取るために勉強していました。ある時、僕と同じ考えをもつ教育者の本と出会って、これは素晴らしい!と。それで息子を、その著者が校長先生をされていた和光小学校へ入学させました。
――素晴らしい教育理念で有名な学校ですよね。
息子は自由な保育園で泥まみれで野生児として遊んで育ってきましたが、途中引っ越しで転園。そうしたら伸び伸びと育っていた彼が「手に負えない子ども」として保母さんに扱われてしまった。僕は息子が天才と思って育ててきましたから、彼の良さを伸ばせる教育とは何だろうと考えた。小学校受験なんて考えもしませんでしたが、校長先生へ著書に感銘を受けたことを伝えるお手紙を書きました。
――そこで息子さんの才能が開花されました?
小学2年生頃に授業参観へ行った時の話です。先生が「これわかる人?」と聞いて「はいはいはい!」と元気よく手を挙げている一方で、「これわからない人?」と聞いても同じように「はいはいはい!」と挙手していた。わからない時、手は挙げないものだろうと家に帰って息子に言うと「お父さん、それは違うよ。わかる時はもちろん手を挙げるけれど、わからない時も手を挙げてわかるまで教えてもらうんだよ」と。そうか!と目から鱗でした。それと同時に子どもの感受性の素晴らしさを思い知りました。
編集後記
――ありがとうございました! ダンディーな長谷川さんが元祖イクメンだったとは驚きでしたが、息子さんの昔話をする時の幸せそうな表情は、しっかり子どもを育てあげた母性漂うものでした。「TAKAMINE」には今の日本に届けたいメッセージがあります。脇を固める豪華キャストにも注目。ドロドロなラブシーンはありませんが、爽やかな風を感じる愛の物語です。
取材・文/マザール あべみちこ