1991年にアイドルとしてデビューし人気を博しながら1995年芸能界を引退。翌年、ゲーム・WEBのプロデュースや制作を行う(株)チェリーベイブを設立。アイドルから起業家への転身を成す。出産を機にヨーガを始め、ヨーガのレッスンや各種プロデュースなど斬新な感覚でデジタルとアナログを融合させている。多忙な一方で、9歳になる息子さんとの日々についても伺ってみました。
千葉 麗子(ちば れいこ)
1975年大阪府生まれ、福島県育ち。
1991年アイドルとしてデビュー後「チバレイ」の愛称で人気を得て、TV・CM・ラジオに多数出演。1995年アイドルを引退、デジタル系の(株)チェリーベイブ代表取締役に。様々なゲーム・WEB・携帯コンテンツ・システム等のプロデュースや制作を行う。1999年出産と育児を機にヨーガを始め、2002年、成瀬貴良氏主宰ヨーガ・サンガティ・グループにてインド哲学やヨーガ教典の勉強を開始。同年、橋本光氏主宰日本フィットネスヨーガ協会にて、インストラクター養成コースを卒業。
その後、NHKでのヨーガの番組の指導・出演のため日本ヨーガ学会にて、田原豊道会長の特別指導を受ける。2003年から北インド、リシケーシにあるTHE DIVINE LIFE SOCIETYでの修行滞在を重ねる。Swami Sivananda師の教えに感銘を受け、ヨーガを総合的に捉える「インテグラル・ヨーガ」のメソッドを自ら組み、講師、技術統括ディレクターとして定期的なクラスを持つ。2006年The Sivananda Yoga Vedanta Centers and Ashramsの200hrs ティーチャートレーニングに参加し、全米ヨーガアライアンスの資格を得る(Yoga Vedanta Forest Academy卒業)。Swami Sitaramananda師より「Durga」と命名されシヴァーナンダ・ヨーガも広めるに至る。docomo/au by KDDI(EZweb)/Softbank公式サイトにて「生まれ変われ」、「Pocket Yoga」や「AuraAIダンジョン」をリリース。
デジタルとアナログを融合させた斬新な感覚が、女性たちに支持されている。
あなたならできる!と言われて育った
――千葉さんは15歳の時にアイドルとしてデビューされました。小さな頃からタレントになりたかった?
4歳頃に観たアイドルで、当時はピンクレディー、松田聖子さん、中森明菜さん。ブラウン管を通じて王道のアイドルの動く姿を見て、私もこうなりたいなと。かわいいお洋服着て、いつも笑顔で、すごいなぁって。
私の母がこれまたすごいんですけれど、「ポジティブシンキング」な女性で、絶対に『Cannot(できない)』と言わず、『あなたならなれる。こんな子たち超せるわよ』ぐらい言われ続けた。なれる、YOU CAN, YOU CANで育ててきてもらったおかげで「ああ、私はなれる。アイドルになれる」と思って、オーディションを受け始めたのが小学6年生頃。12歳くらいからでした。父は芸能界に反対で、すごく涙もろくてナイーブな人。私を強く成長させてくれたのは、母からの影響が大きいです。
――12歳で自分の意思でオーディション受けると決めて。オーディションを探してきて。
チャレンジしましたが、早い時期に挫折を味わいました。福島県の田舎っ子でしたから、一番最初に通るのが仙台大会、東北大会。東京大会に行くことも何回もあったけれど落ち。東北大会のままで落ち。そんなのを20回ぐらい繰り返してきました。
それでも絶対なれると思っていたから何回も受けて。特別賞、2番目の賞、3番目の賞といろんな賞もいただいて。グランプリはずっと外してきましたが、16歳のときに、事務所の方にスカウトされて。それで芸能界に入りました。負けず嫌いの性格がすごくあった。
母は嬉しそうでした。東京大会のときは新幹線に乗ってホテルに泊まったり。
――スカウトされて16歳のときに、一人で東京に移られてきた。自立が早かったですね。
16歳で東京に単身上京してから一人暮らし。自分で生きていくしかないという感じで。いま息子が9歳ですが、あと7年。もうあの頃の歳の半分来ていると思うと、そういう気持ちになります。もちろんもっと早くから仕事をしている子も多いでしょうし、上には上がいる。自分の歩みと息子の成長を比べるわけではないけれど、自分の今までの人生を振り返るからこそ、そう感じるのかなとこの頃思います。
息子を育てていて日々感じるのは、可能性は無限だということ。「あなたはできない」「才能がない」「ばか」、そういうことは極力言わない。生理で体調が不安定な時でも、仕事忙しくても、言わないように気をつけています。
――お母様がそうしてくださったように、同じように言葉がけが一番前向きになる。
言葉は、自信に変わるもの。どんな道でも無限に可能性がある。それをつぶすのではなく、増長してあげることを言いたい。でも親子喧嘩もしますし、9歳ですから何しろ生意気を言ってくるし、プロレスごっこじゃないけど一緒に子どもと床の上で子ども二人転げまわることもあるし、何でこんなこと何回もいわなきゃいけないの!と怒鳴ることもある。それはどこのお母さんと親子ともまったく同じ。だけど、一つだけ一番気をつけているのは、自信をもってやっていくものを見つけるために、その芽を摘まないようにしたい。できるよ、あなただったらできるよ、とそればかり言っています。
人の役にたつ仕事を求めアイドル卒業
――早い時期に芸能界ではない仕事も手がけられて引退されました。生き方の変化というか、何か転機がありましたか。
アイドルという仕事をソツなくこなしている自分に気づいて、ある時、人のためになりたいと介護の短大に進み、介護を仕事にした友達、それを学ぶ一般人の友達を見ていて……。短大へ通う年頃になって、好きな仕事は関わっていて気持ちがいいな、やっていて面白いなって思うことをやりたいと思うようになった。それで20歳の時に芸能界を辞めて、当時好きだったデジタルの仕事へ。その頃はITって言葉がなかったから、マルチメディアでゲームとかパソコン、インターネット、そういう新しいことに関わる仕事がしたいと。転職というのかな。パッと辞めちゃった感じです。
――周りに千葉麗子さんを支えている大人たちがたくさんいて、引退という道を選択された時、「待て待て」と遮る声は?
ありました。怖さもあった。自分が好きな道に進みたいという芯がすごく強かったのと、計算高いかもしれませんが次の業界で「麗子ちゃん」と手を広げて待っていてくれる環境に持っていった。18、19歳と2年くらい時間をかけて(笑)。事務所の経営状態を黒字にすれば、誰にも文句は言われず辞められる(笑)。そうして周りに応援してくださる方を増やしていった。感謝しています。
――「飛ぶ鳥跡を濁さず」で、お若くていらしたのに先見の明がありました。まったく異なる業界で経営者としてもやってこられ順風満帆でしたか。
ではないです(笑)。メディアで情報を得る一般の方々には、「華やか~!成功してる~!何も辛いことなさそ~!」と思われるかもしれませんが、犠牲にしているものはたくさん。時間、愛、心、お金…嫌なこと、大変なこともいっぱいありました。カミングアウトしていますが、私は一時期うつ病を患って拒食症、摂食障害になった。わざと吐いて体重も37キロ前後、骨と皮の状態。心療内科へ行って、抗うつ剤、睡眠薬、精神安定剤を飲んで、そういうことも超えてきて、いまヨーガをやっているのは自然な出逢いがあった。
――ヨーガに出会うまでは体を壊されて。どんなふうに健康を取り戻しました?
どこの社長さんもそうでしょうけれど、ベンチャーなんてかっこいい言葉を使っているけれど資金繰りが大変で。次どうやって払うんだろう?通帳の残高がこれしかない!と。そういうことを経験して強くなっていく。慣れてくるというか「ま、いっか!」と肝がすわる。でも、20歳そこそこの小娘でしたからすごく辛かった。会社のパソコン売りに行ったり、銀行へ頭を下げに行ったり。そういういろんなことを経験して強くなったし、乗り越えてきた。今34歳、会社経営は14年になります。子どもを産んだのが9年前の24歳でした。
――お若かくして仕事も出産も育児も。人生早回しみたいな勢いでしたね。
起業後4年間は辛いことが多かったけれど、もし「見えない力」が働いているとすれば、その力が『このままだと、身体と精神を壊して死んじゃうよ』と、子どもを産ませてくれたのかも。身体と心のリセットをする自然のタイミングで夫と巡り合わせてくれた。何よりも子どもという新しい命を、自分の血のつながりがあるものを子宮に宿したときハッとして。子どもを産んで1ヶ月後からヨーガを始めた。
きっかけは妊娠中、海外の雑誌、洋書を結構好きで見ていたら、マドンナとかメグ・ライアンが、ヨーガマットを小脇に抱えてセントラル・パークを歩く写真を見つけた。「これは日本にもブームがくる!セレブがやることは絶対マネするから、ヨーガはビジネスになる」とピンときた。ヨーガスタジオが当時なかったので。それと、産後15キロぐらい太ってしまったので体型戻さなくちゃ、と。でも辛いトレーニングは嫌だし、ヨーガなら…と。もう一つ、父が仏教やヒンドゥー教などの宗教本をたくさん読んでいたこともあって。ちょうど父が癌になり、亡くなる時期も重なって、ヨーガに呼ばれたというか。三点が重なって、よし、と思って。一気にNYに行き始め、ヨーガスタジオ、ピラティスのスタジオを全部見て、帰国後代官山でオープン。何店舗か経営して……と事業としても始まった。何店舗も経営し、メンタル部分を追求したくて毎年インドに行き始め、アメリカに滞在し資格も取った。
習い事そのものでなく広い視野で楽しんで
――旦那さんは8歳上で家事全般がお得意で、料理もすごく上手な方とか。パートナーとして素晴らしいですね。
私が何かしら活躍もしくは生活、生きていくために必要な人を、神様があてがってくれたように思います。私は頑張り屋さんで誰にも任せたくない、自分がやりたいっていう性格でしたから育児も大変で。ベビーシッターさんや託児所に助けてもらう方法もあるのに、自分がすべて。自分が自分がって、頑張り詰めちゃった。だんだん周りに甘えることがうまくできるようになって、息子も6ヶ月から区の保育園に入所して病気も克服していきました。保育園の先生もすごく温かくて、お迎えが1時間遅れたり何かあったときも、ずっと見てくれた。子育てはもちろん大変ですが、人とのつながり、人に感謝する気持ち、人を愛する素直さがあれば、意外と気持ちはつながりあう。子育ての醍醐味は、子どもの成長もそうですが、それによって自分が成長させてもらえること。たくさんの人の愛に気づくことができる。すごく嬉しいですよ、その瞬間が。
――息子さんはいま水泳と英語を習い事としていますね。本人がやりたいとか親が選んだり、どんな感じで習い事を選ばれたのですか。
水泳は、地元の友達たちが行っているから。男の子だから身体動かしておいたらというのと、走るのも早くないし、ジャニーズに入れるようでもないし(笑)。水の上だったら勝負できるかもしれないから入っとけば?みたいな感じで。でも上達してきて上手いですよ。習い事が一番面白いのは、コミュニケーション能力があがるからじゃないかと。同世代の子と、学校、家、地域、それとは別に新しい社会が増える経験。それと私自身が、アメリカ留学とインドへ毎年行く中で、英語の大切さを思い知ったので、やっとけば?っていう。英語を習得するには、外国に住むほうが早いのかもしれない。でも、物怖じせず怖気づかない心が英会話のポイント。100点取った、スペルきれいにかけた、何分しゃべれたからえらいのではなく、どんな人にでも心を開いて助けてあげられるようになってほしい。