13年前にNHK「おしゃれ工房」に出演してから「ニットの貴公子」の呼称で、一躍その知名度が全国版に。現在も各地における講演や教室を通じて、手編みの素晴らしさを広める活動をされています。テレビのブラウン管で見たままのやさしい語りで、驚くべき幼児期の器用な体験もお話していただきました。モノ創りへの愛情に掛ける広瀬さんは、意外にもガッシリした男らしい体型。でも、手は細かな毛糸のデザインを紡ぎだす美しさでした。読後はきっと、「子どもの頃の気質って大切だわぁ!!」と感じるはずですよ。
広瀬 光治(ひろせ みつはる)
1955年、埼玉県生まれ。日本編物文化協会副会長。
高校卒業後、水産会社に勤めながら、霞ケ丘技芸学院の夜間部で編み物を本格的に学ぶ。
その後日本ヴォーグ社に入社し、編み物雑誌の編集長などもつとめる。93年からNHK「おしゃれ工房」や「趣味悠々」をはじめテレビにも出演し、長身で華やかな品のある容姿から「ニットの貴公子」として人気がブレイク。99年からフリー。
現在は編み物普及のために全国を講演に回る一方、専門分野のみならずバラエティーや子供向け番組などにも出演。また新聞雑誌の取材、編み物本の作品デザイン等で多忙な日を送りながらニットの楽しさを広く伝えている。
家庭科5の少年は、周囲から賞賛を受けて育った
――今日お召しのニットポロもご自分で編まれたものですよね?素敵です。ニット創りは洋裁以上に、計算も必要ですし根気がいる仕事だと思いますが、小さい頃はどんなお子さんでしたか?習い事は何かされていました?
そうですね。やんちゃな男の子ではなかったです。昭和30年代はどの家庭もそうだと思いますが、既製品が売っていなかったので何でも手づくりのものでしたから、親のあたたかさみたいなものを受けて育っていたと思います。私が小学生の頃は、習い事といえば「読み・書き・そろばん」が定番で、書道とそろばんを習っていました。そろばんのほうが好きでしたね。
――編み物も計算が必要ですから役立っているのかもしれませんね。小学生時代から編み物に目覚めていらしたのですか?
小学校時代はリリアンに凝っていました。母が洋裁をする人。祖母はよく毛糸をほどいていたので、糸巻きの手伝いをしたものです。だから毛糸との出会いは、小学3年生頃ですね。家庭科の成績はいつも5。「広瀬くんってすごいね」「女の子より広瀬はうまいなぁ。そういう点は伸ばしていったほうがいい」と友達や先生に褒められて一目置かれるから自信もつきました。その頃の一言って今でも心に残っているし、とても大切ですね。
中学にあがってから、技術と家庭に女子男子が分かれてしまったので残念でした。女の子がクッションや刺繍をしているのを眺めて、キットを余分に一個買ってもらって、こっそり私も作っていたり……なんてこともありました。でもね、人と違うということで賞賛を受けることがあっても、その当時は「お前は男なのに変だ」とか、それをもとにイジメられたりなんて全然ありませんでした。体を動かすのも好きでしたけれど、マフラーや手袋を編んで、友達にプレゼントしたり。
――その頃から力を発揮されていたのですね。高校に行くと、もっと創りものが高度になったのでは??
はい。進んだのが商業高校で、女子の割合も多くて。皆がセーターを編んでいるのを見てビックリ。これはスゴイ!と影響を受けたのがキッカケでした。マフラーができるんだから…と見よう見まねでセーターの編み方も覚えました。高2の秋に東北地方へ修学旅行に行くことになって、皆が着ているような既製品のものより、色は黒や茶で同じでも、デザインが違う自分が編んだものを着たかったんですね。ところが、負けず嫌いでしたから女子に編み方を聞くのがシャクでしてね(笑)。詳しい編み方が書いてある本の通りに、糸も針も編み方もその通りにやってみたにもかかわらず、出来上がったセーターはなぜか小さくて……。ゲージというものを取ることすら知らなかったのです。夏から編み始めて3カ月。2度ほどいて3度目でようやくイメージ通りのものを仕上げることができました。着ていると、「え?これ広瀬がつくったの?」「すごいじゃない!!」と皆に言われて。うれしかったですね。
負けず嫌いで努力家。3年間で課題100枚をクリア。
――尋常でない根気と、天性の器用さをフル活用されたと思いますが、周囲の方々の反応も賞賛の嵐で、それがまた広瀬さんの活力になっていたのでは??
そうですね。道を歩いて近所のおばさんに「みっちゃん、いいセーター着ているわね。私、太っちゃって何かいいセーター編んでくれない?」なんてオーダーが入ったりして。この模様とこの模様を組み合わせるとおもしろいから、こう編もうとか自分なりに色々考えるのが楽しかったんです。彼女がいる男子は手編みのセーターを着ることができましたけれど、彼女がいない人がほとんどでしたから(笑)。そういう男子に手袋を一晩で編んであげたり。プレゼントすると皆に「ありがとう」と言われると、またうれしくて。手づくりの体験の喜びが身にしみこんでいたんですね。
――心をこめて作ったものを「ありがとう」と感謝されるのは何物にも代えがたい喜びですよね。ところで、広瀬さんの編み物歴は何年くらいに及ぶのでしょう?
中学から始め、高校、就職してからは会社の女の子を集めて会議室で編み物教室を開き、19才で夜間の編み物学校に3年間通い、水産会社で経理をやっているよりも自分が好きな編み物を仕事にしていきたいなぁ……と思うようになって22才で日本ヴォーグ社に中途入社しました。単に「編んでいた」というより、「編み物を職業にした」時から換算すると29年になりますね。
――水産会社の経理から、編み物の世界へ……という転身も珍しいですよね。
子どもの頃、そろばんを習っていたのでそれを活かして商業高校を選び、簿記の資格を取りました。そういう意味では、それが職業を選択する指標になっていました。水産会社の経理をしていた当時、ちょうど社会的に電算化の波がきました。入社した頃は大きな電卓が1台しかなかったのが、どんどん小さくなって一人1台数千円で電卓をもてるようになりました。このまま勤めていても、私が身につけてきた簿記やそろばんは、役に立たなくなるかもしれない。そう感じたのと、編み物の夜間学校を卒業するタイミングが同じでした。中途入社できたのも何かの縁とかタイミングだと思います。
――編み物の専門学校の中でも、ひときわ優秀だったのでは??
夜間部でしたが、昼間部の人にも負けたくなくて。毎回3時間授業の中で編むのですが、毛糸のパンツからあらゆるアイテムを編んで、大体100枚くらい卒業するのに編まなくてはならなかった。ですから、周りとおしゃべりする時間なんてありません。手編みはできて当たり前、機械編みをマスターしないと職業としては成立しませんから。厳しかったですよ。
妹のウエディングドレスを2年かけて編んだ兄。
――とても個性的な小学生だったとお察し致しますが、振り返ってみて何か思い出深いエピソードはありますか?
塗り絵やお人形が好きな男の子でしたが、当時バービーちゃんみたいなファッショナブルなお人形が人気で、お年玉を貯めて買いに行きました。でも、髪型と着ている服がミスマッチで気に入らなくて。自分でお人形の服を作って着させたんですね。それを見た母が、「かしてごらんなさいよ。こうするのよ」って立派な服に作り直してくれて(笑)。その時、「男の子が何でこんなものを」と言って取り上げられたら、どんなに傷ついてしまったかと思うんです。
――広瀬さんの好きなことを周りの人に理解されていたことは大きいですね。
そうですね。私は編み物や洋裁が好きでしたが、学校時代にそれで嫌な思いをしたことは全然無かったんですね。むしろ、社会に出てからのほうが「そんな女っぽいことを男がしているのか」というような言われ方をして、腹が立ったことがあります。
――まだまだ社会の認識が低いのでしょうね。ところで妹さんの結婚式にドレスを編んだとお聞きしましたが。
はい。2年掛かりで仕上げました。レース編みや平編みや色々な模様を組み合わせた力作でした。でも、妹がその後、バザーに出してしまって人手に渡ってしまいましたが。それでも、写真を撮っておいたので、記憶をたどってコピーを創って、今も展示会などには出品していますよ。
――え、もう一度同じドレスを編まれたのですか!!ますますスゴイ…。編み物は何歳くらいからできるものでしょうか。
小学2~3年生でしょうか。興味がある子はもっと早くてもできると思います。今、月の前半は講義で全国を行脚していますが、男の子で器用な子が結構います。編み物は一目づつ積み重ねないと出来上がりませんし、手づくりの良さを実感できると思います。今の子どもは、ゲームとかテレビとか何でも受け身が多いでしょう。でも、編み物は目に見えて出来上がっていくし、完成度にどんどん近づいていくんですよ。その達成感もぜひ味わってほしいですね。
編集後記
――今日は本当にありがとうございました。
広瀬さんのお話を聞いて、心がポカポカ暖かくなりました。ものを創る人は、純粋に好きなことをコツコツ積み重ねていますが、広瀬さんは物腰は柔らかでも、気骨のある男らしい判断力でどんどん運命を切り拓いてこられたのだと感じました。私も昔の毛糸をだして、もう一度編み物をやってみようかな~と思った次第です。親子で一緒にやってみたら、案外、息子のほうが上手かったりして……。
取材・文/マザール あべみちこ