年末に訪ねた女川の新しい商店街で、ダンボルギーニの今野さんと話している時に彼が語った言葉が刺さった。
「震災とか被災地という言葉がアピールできる力が低下してきている。これからは、もっと別な何かが必要だ」
これはつまり、震災の記憶とか教訓といったものが、域外の人たちには訴えかけなくなったということ、つまり「風化」が深刻化したということだ。
ずっと以前から、同様な声を聞くことはあった。1年ほど前には、いわき市久之浜でいつもお世話になっている神社の奥さんが、「もうそろそろ、自分たちが被災者だというように考えるのは止めようと思うんです」と言っていた。さらに遡れば、陸前高田の木村屋さんは震災の翌年、「被災地ということで注目してもらっているうちに、しっかり自立してやっていける力をつけなければ」と町の将来について語っていた。同じ頃、石巻日日新聞の近江さんは、立ち上がることができた人が道を開いていくつもりで走っていかなければと言っていた。
いずれも、脱・被災者、脱・被災地の必要を説く言葉だったのだけれど、もはや風化を認めざるを得ないという言葉は少なからずショックだった。
ただ、そんな言葉を示してくれた人たちがどんな人なのか考えてみると、みなさん、被災というダメージからとにかく立ち上がろうとしている人たちばかりだ。
そこでふと考えてみた。風化って、よくないことなのだろうかと。(震災の直後から「震災の記憶を風化させない運動」と称して全国を飛び回って講演活動を続けてきた近江さんには申し訳ないのだが)
当事者にとって風化はありえない
域外の人の意識の中で震災の記憶が風化しようがすまいが、実際に被害を受けた人たちの中でその記憶が薄れたり消え去ったりすることはない。
それは実感として間違いない。たとえばお正月のおせちをよばれに出掛けても、めでたいお祭りに招待してもらって楽しく歓談していても、被災した話は必ず出てくる。震災の話を抜きに長い話をすることなどありえない。石巻のバーで働くことになった知り合いの女性も言っていた。「お客さんは明るい人が多くて、仕事の事とか恋愛のこととか楽しくおしゃべるされるんだけど、最後にはやっぱり震災の話になるんだよね」
ふと、こどもの頃、お盆やお葬式なんかで親戚の人たちに会う席で、かならず戦争当時の話になっていたことを思い出したよ。人生の中でとりわけ大きな出来事であったわけだから、それを忘れ去ることなどありえない。
大叔父の後妻に入ったおばさんは、会う度に必ず満州からの引き揚げの話を繰り返していた。
「満州に行った日本人は恵まれていたからね。財産もたくさん持っていた。でもソ連が攻めてきて命からがらで逃げる時には、お金なんて持って行けない。だからみんな宝石とかだけ持ち出した。でも、引き揚げの船に乗る前の検査で見つかると没収されてしまうのね。だから男の人たちは宝石を呑み込んでた。うんちする度に中に入ってないかほじくってね。女の人は別の穴に入れたもんだ。それでも身体検査で見つけられる人もいたんだよ」
毎回毎回の話でもあるし、あまり上品な話でもないので、彼女がこの話を始めると、いい加減にしろと怒るおじさんたちもいた。でも彼女は話を止めることはなかった。
よほど伝えたいことだったのだと思う。何しろ、大叔父(彼女の夫)の死の数週間前に病院を訪ねた時にも同じ話を聞かされた記憶がある。実体験した人にとって、風化なんていうことは本来ありえないと思う。
この年末年始の東北でも震災当時の話をしてもらた後、「もうこんな経験はしてほしくないんだ」という言葉を何人かの人から聞いた。まったく同じ言葉が別の人から聞かれるたびにハッとする。気丈に振る舞っているその人が、あの日、大切な人を亡くしたのだということに思い至る。言葉と一緒に想いがが染みこんでくる。
風化があるとすれば、それは域外の人、実体験していない人たちの中でのこと。だが、域外の人たちの意識の中で震災の記憶が薄れていくことは、被災した地域の人たちにとって必ずしも悪いことではない。だって、いつまでも「被災地だから」と特別扱いされていては、本当に立ち直っていく上での妨げになると思うから。
被災地だから、ではなく、実力で魅力をアピールして、地域の経済とか文化とかを回していくことこそが、おそらく本当の意味での復興につながっていくと思うから。
その点、ダンボルギーニの今野さんも、木村屋さんも、近江さんも、同じ目標を見詰めて活動して、成果をあげているのだと思う。
風化しないようにと力むより、新しい魅力を
でも、だからといって、東北に人が来てくれなくてもいいということではない。ここ半年くらいの間に、被災地のあちこちで復興が次の段階に入っている。工事の内容もかさ上げから、道路や宅地の造成、災害公営住宅の建築、さらには自主再建の個人向け住宅建築へと進み、町の雰囲気も変わった。
こんな様子を外から眺めていると、まるで本当に復興が進んでいるように見える。でもそれはまったく違っていて、本当はこれからが大変なんだけど、外見上進んでいるように見えてしまう。南三陸のホテル観洋で語り部をしている伊藤さんも言ってたよ。目に見える形で工事が進んできたせいで、却って被災地の実情が見えにくくなっていると。だから、本当は今こそ、たくさんの人に東北に来てもらって、復興というものの実態、大規模災害に見舞われた後にどんな苦難があるのかを知ってほしい。
来てほしいからこそ、風化を認めざるを得ないんだ。被災地というキーワード以外に、たくさんの人たちに訪ねてきてもらうための魅力を作り出していくために。
ひとつは女川の新しい商店街のように、魅力的な施設をつくることで集客を狙うという方向があるだろう。ダンボルギーニみたいに、「ここにしかない」魅力的なコンテンツで注目を集めるのもそうだ。
これまであまり注目されてこなかった、田舎ならではの暮らしも磨けば光るコンテンツだろう。築200年の古民家や明治時代に建てられた蔵で聞くご当主の話とか、今でも鹿を撃ってる民宿のご主人とか、都会の人がびっくりするようなものが東北にはたくさん残されている。
もともと東北の沿岸部には、おいしい食べ物や豊かな自然といった観光資源がたくさんあった。それを活かすこともそうだけど、観光の魅力だけではなかなか人が集まってくれない現実が震災以前からあったのだから、従来の観光だけじゃない、新しい何かを創り出していく必要がある。
もうひとつは、その場所に行きさえすれば、地元の人たちと深く関わることができるような場所。たとえばロシナンテス東北事業部だ。津波の被害にあった人たちを対象に続けてきた健康農業には、これまでにも域外から何千人もの人たちがボランティアとして参加してきた。多くは大学生や若い社会人たちだ。被災地に対する意識が高い彼ら彼女たちにとって、行けば必ず地元の人たちと直に触れ合うことができるロシナンテスという「仕組み」はとても貴重だと思う。
被災地で食事をしたり、語り部ツアーに参加するのもいいけれど、一緒に農作業をしながら、生の声を聞くことができるのは、協働型の交流の場があるからこそだと思う。
ダンボルギーニの今野さんの言葉を聞いて、被災地がいま大きな変化の入口にあることがよく分かった。これからさらに状況が見えにくくなっていくからこそ、深く関われるコンテンツや仕組みの重要性は増していく。
被災した東北には、被災地というだけではなく、日本の将来に関わる共通の問題がたくさんある。そしてその解決に向けてのキーもたくさんあると思う。たとえば、逆境にめげずに挑戦し続ける人たちと話をするだけで、自分がどんどんエンパワーされていくのを実感できる。ほかじゃなかなか得られない体験だ。
だから、もっと多くの人に東北から多くのものを得てほしい。その仕組みを自分も考えていきたいと思っている。
風化とか震災といったことはとりあえず置いてでもいい。地元の人たちと話していればからなずたくさんの話を聞かせてもらえるのだから。
被災地だからということだけでは、なかなか注目してくれないし、来てくれない。そんな現実を考えた時に、自分たちにできることは何か。現時点で自分たちにできることを精一杯やってみた。それがダンボルギーニだった