アメリカ合衆国陸軍第442連隊(日系人部隊)の覚書

反日感情と強制収容の中で誕生した日系人部隊

手榴弾訓練を受ける第100歩兵大隊。このうちの何人が生還したのだろうか

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第二次世界大戦中木の1943年8月、アメリカ本土から大西洋を渡り、ヨーロッパ戦線に送られた部隊があった。アメリカ陸軍第100歩兵大隊。ほぼ全ての兵士がハワイ出身の日系アメリカ人によって組織された部隊だった。この部隊は後に、米本土の日系人を主体とする第442連隊に第一大隊として組み込まれ、ヨーロッパ戦線の最前線で闘うことになる。

真珠湾攻撃で対日戦争に突入したアメリカでは、全国的に反日感情が高まり、日系移民や日系二世たちは敵性外国人と目され、厳しい差別の中にあった。アメリカ本土の日系移民や日系二世たちは家屋や土地など全財産を没収された上、着のみ着のままで強制収容所に収監される。同じ敵国でもドイツやイタリア系の人々の強制収容が行われなかったことを見ても、これは明らかに人種差別的な偏見に基づく人権侵害だった。米国内にはこの政策に反対する人々もいたが、フランクリン・ルーズベルト大統領は、国防上の目的で外国人を隔離できる「大統領令9066号」に署名、強制収容を実施した。

強制収容所の住居は急造のバラックで、トイレには個室の仕切りすらなかった。食事の多くは収容所内の農場でつくられた作物で、収容所外部との連絡や情報は遮断された。

ハワイでは日系人の数があまりにも多いため、住民の強制収容は行われなかったが、日系人に対する風当たりの強さに違いはなかった。

ローマ解放の栄誉を奪われる

第100歩兵大隊はハワイで徴集された兵士を中心に組織された戦前から続く歩兵部隊だった。対日戦争が始まってからも米国内での訓練が続けられ、前線に送り出されることがなかったのは、敵性民族を主体とする部隊であり、他の部隊からはジャップの手を借りる必要はないなどとあからさまに差別されていたからだという。

第100歩兵大隊は1943年8月、ようやく米本土からアフリカに渡るが、どの戦線に配備されるかは決まっていなかったという。翌月、地中海を渡りイタリア戦線に参加したのは、第100歩兵大隊自らの強い希望があったからとされている。

この年の7月、イタリアでは独裁者ムッソリーニが失脚した。イタリアは国としてはすでに連合軍に屈服し、休戦状態にあったが、ドイツ軍はローマを占拠する。イタリアはドイツ本土防衛の上でも重要な土地だったからだ。東部戦線や西部戦線ほどには知られていないが、イタリア戦線にはドイツ軍の精鋭が送り込まれ、1945年まで米英軍とドイツ軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられていた。

1943年10月10日、師団長からペイントするように命じられた第34師団の師団マーク「RedBull」。米軍兵士として認知されたことを意味していた

この年の7月、イタリアではムッソリーニが失脚していた。イタリアはすでに連合軍に屈服し、休戦状態にあったが、ドイツ軍はローマを占拠する。連合軍との戦いは1945年まで続いた。東部戦線や西部戦線ほどには知られていないが、イタリア戦線にはドイツ軍の精鋭が送り込まれ、米英軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられていた。

1944年6月第100歩兵大隊は、米本土の日系二世を主体として開戦後に編成された第442連隊と合流し、その第一大隊となる。

日系人による部隊はイタリア戦線で数々のドイツ軍防衛線を突破する活躍を見せる。その戦闘は、連隊のモットー「Go for broke!(当たって砕けろ、当時の日本軍が多用した、撃ちてし止まんにも酷似している)」そのもので、高い死傷率にも関わらず攻勢の手を緩めない果敢なものだったと賞賛されている。

※ 第442連隊のモットーが「Go for broke!」なのに対して、第100歩兵大隊のモットーは「Remember Pearl Harbor」であった!

第442連隊は、1944年7月にはローマに最も近い肉薄した部隊だった。しかし軍の上層部から進軍を止められ、ローマ解放のため最初に入城する栄誉は後続の白人部隊のものにされた。

アイデンティティをかけての闘い

第442連隊は、ローマ陥落後フランスに転戦し、ドイツ国境に近い森林地帯での激戦に投入される。

1944年10月には、アメリカ陸軍10大戦闘のひとつに数えられる「テキサス大隊救出」に成功する。ドイツ軍に包囲され「すでに失われた」とされたテキサス大隊の救出作戦は、ルーズベルト大統領自らが下命したと言われる激戦で、救出したテキサス大隊の兵士211人に対して、第442連隊は216人もの犠牲を払っている。激戦の末にようやく戦闘が終わった後、救出したテキサス大隊の上級士官から「ジャップなのか」と言われたため、「自分たちはアメリカ合衆国陸軍第442連隊だ」と訂正と敬礼を求めたという有名なエピソードもある。この戦闘と第442連隊の歴史は、今日でもウェストポイントの士官候補生に叩き込まれているという。

その後、第442連隊はさらにイタリアに転戦。指揮下の部隊である第522野戦砲兵大隊はドイツに向かい、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所解放のための掃討戦に従事したが、その事実は1992年、父ブッシュの時代まで米国内でも公表されなかった。

第442連隊ののべ死傷率は314%(補充されても補充されても兵員の犠牲が出続ける。負傷した兵士が復帰した後、さらに負傷して後送されるという状況)という驚くべき数字で、アメリカ史上でも最も多くの勲章を受けた部隊でもある。2010年には米国最高位の勲章「議会名誉黄金勲章」がオバマ大統領により授与された。しかし、戦後除隊した隊員たちは、差別と偏見、経済格差と苦難に満ちた巷に再び投げ出されることになったのだという。

1946年7月15日、「二世」第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領

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激戦に次ぐ激戦を闘いぬいた第442連隊の隊員たちを支えていたものが、日系人とアメリカ国民というアイデンティティの相克であったことは想像に難くない。

(以上、Wikipediaに掲載された複数の記事を参考にしました)

70年後の第442連隊

第二次世界大戦終結から70年。2015年4月末からアメリカを訪問した日本の安倍晋三総理大臣は、議会での演説の後5月1日にロサンゼルス入りし、近郊の「ゴー・フォー・ブローク・メモリアル」を訪れた。

第二次世界大戦での日系人部隊の勇敢な戦いぶりは、今でも語り伝えられています。従軍した日系2世兵士1万6千人以上の名前が刻まれた記念碑に献花しました。従軍された退役軍人の皆様とご一緒に写真撮影をさせていただきました。

引用元:安倍 晋三 | Facebook

安倍総理が訪米中にアップしたFacebook記事のひとつが、第442連隊の元兵士たちを訪問し、第442連隊の功績を顕彰する記念碑でのセレモニーに参加したことだった。

Facebookには、いまやほとんどが90歳を超える元・第442連隊の隊員たちと並んでの撮られた写真が掲載されている。ネット上ではFacebookの写真の他にも、総理が老兵士と握手する写真や、満面の笑みを浮かべる写真も伝えられている。

第442連隊と日本にはどんな結びつきがあるのだろうか。70年目に実現した総理の訪問には考えさせられるものがある。

日本人の血を引きながら、アメリカ人として(財産も国民としての権利も剥奪されたにも関わらず)日本の同盟国であるドイツと闘い、大きな犠牲と引き換えに最精鋭の栄誉を勝ち取り、そして苦難の戦後を送った70年後に日本の総理大臣と握手する。

第442連隊の元兵士たちは、戦後70年をどう見るのだろう。70年前の第442連隊の戦闘をどのような歴史として位置づけているのだろう。

下記のリンクは、安倍総理が参加したセレモニーや、第442連隊のヨーロッパでの戦闘の様子などたいへん参考になる。このページは、第442連隊は侍だったと称えるスタンスから描かれている。このページには、第442連隊の兵士たちがヨーロッパの激戦地で「バンザイ突撃(全滅覚悟で敵陣に突撃すること。太平洋戦争が繰り広げられた南の島で、日本軍がしばしば行った)」を行ったとまで記している。その犠牲的な敢闘精神が、戦後もマイノリティへの偏見が拭われない中で、日系社会の地位を向上させていった根気強い闘いにも繋がっていると指摘する。

あるいは実際にそうだったのかもしれない。ただ――

戦争中は敵国として「鬼畜」とまで呼んだ国に無条件降伏し、本土決戦を回避し、聖戦完遂と勝利を信じて死んでいった「英霊」を裏切り、のみならず鬼畜と恨んだ国を受け入れ、あまつさえ同盟を組み、その国の行う戦争に加担しようと準備している日本。

対照的ではありながら、やはりアイデンティティの間でぎりぎりの活路を開いてきた、アメリカ合衆国陸軍第442連隊の兵士たち。

ともに、心の奥底に「ねじれ」をしまい込み、そのねじれ故に苦しみ、悩んできた両者の歴史から学ぶべきことは、侍魂ばかりではないのではないか。

安易に結論にむすびつけようとするのではなく、ねじれたものから生まれてくるものに耳を傾け、こころを寄せなければ申し訳ないのではないか。太平洋をはさんで対岸のアメリカに渡り、さらに大西洋を越えた先のヨーロッパで闘い、倒れ、命を失っていったアメリカ合衆国陸軍第442連隊の兵士たちに。