「千人針」――
言葉もすでに風化してしまったかもしれないが、戦地に赴くことになった兵士たち、つまり夫であったり、息子であったり、許嫁であったりした人たちのために、「銃後」の女性たちが無事を祈りつつ、まるで刻むかのように糸の玉止めを結んだもの。
8月の末、三島市で開催された「平和のための戦争展」に実物展示として寄せられた千人針を実際に目にして、70年以上前の人たちの祈るような思いが伝わってきた。
銃砲弾がしきりと飛び交う戦地に出征して行っても、これさえあれば弾がよける。あるいは弾をはじき飛ばすと信じて、銃後の千人の女性が、ひとつひとつの玉止め縫いを施した布地、それが千人針。古くは日露戦争の頃からあったと伝えられるが、出征する夫や息子がいる家の女性たちが、街頭に立って、人々に支援を呼びかけるようになったのは、満州事変以降の中国での戦い、そして太平洋戦争が本格化した頃からだと伝えられている。
千人針という言葉や、弾止めの語呂合わせの玉止めが行なわれたことは知っていても、実物にお目にかかる機会はほとんどないだろう。木綿の晒しのような生地に玉結びの結び目を付けていくことの意味、そして込められた思い。
千人針には「虎」の意匠のものがしばしば登場する。それは、「虎は千里を往き、千里を還る」との言い伝えによるもので、街頭での千人針支援を呼びかける活動の中で、ふつうの人なら玉結びをひとつ作るだけのところを、寅年生まれの女性についてのみは、彼女の年齢の分だけの玉結びをしつらえることが出来たのだという。
「お国のために」
出征兵士に対して表立って生還を願うことすらタブー視されていた時代、帰ってきてほしいという思いが虎の意匠には込められている。
「弾を止める」思いの込められた千人針。しかし、糸が刺された布地は、シラミやノミのかっこうの隠れ家となり、たとえば腹巻きとしてなど使い物にならなかったという。
しかし、それでも同じように伝えられているのは、たとえ感染症の温床となろうとも、最前線の日本軍兵士たちは、妻、母、妹らから届けられる千人針を、命が続く限り身につけていた。そういう人が非常に多かったというのだ。
絶望の最前線で、彼らはどのような思いをもって、千人針が「刻まれた」布地を抱いていたのだろう。シラミやノミのすみかとなると分かっていても、自らの死のその瞬間には「天皇陛下万歳!」と叫ぶしかないこと(本当は、妻や子供、恋人、そして母親に向かって叫びたいのに違いないのだ)を了解した上で、千人針を大切に持ち続けた兵士たちの心の底に、いったい何があったのか。
街頭で女性たちがしきりと千人針に針と糸を通す写真が残されている。
Wikipediaの記事によると、千人針は戦前の日本だけではなく、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍日系人部隊である第442連隊や、自衛隊のイラク派兵の際にも行なわれたのだという。
弾を止める。止まってほしい。そして千里を越えて生きて帰ってきてほしい
この国に、この町に、この家に、そして私の胸の中に
街頭に千人針を請う人たちが並ぶ姿を、見ることのない未来にしなければ。
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