息子へ。東北からの手紙(2015年7月20日)地元メディアが伝えた「原発PR看板」将来的には復元へ

地元にいるからこそ届けられる情報があるということ。地域の紙メディアの小さな記事に大切な問題が隠されていること。

福島県双葉町には原子力発電をPRする看板が2基設置されている。そこには1988年と91年に町民から募った表裏計4つの標語が掲げられている。

「原子力 明るい未来のエネルギー」
「原子力 正しい理解で豊かなくらし」
「原子力 郷土の発展 豊かな未来」
「原子力 豊かな社会とまちづくり」

原発事故で住民が住めなくなったのみならず、国道と自動車専用道以外には町域にほとんど立ち入ることすらできなくなった今となっては、見るのも辛い、あるいは残酷過ぎる、あるいは人類に対する強烈なイロニーであり、シュールですらある看板。見る人によって感じるものも違うだろうが、原発事故後に特別な存在感をもって、私たちの前に立ちはだかってきた看板。

そんな特別な看板がピンチに陥っていた。この3月、双葉町議会がこれらの看板を撤去する方針を明らかにしたのだ。しかも410万円もの撤去費用を使ってだ。小学6年生の時に「原子力 明るい未来のエネルギー」が選ばれた標語の作者で双葉町出身、現在は茨城県古河市に避難している大沼勇治さんは、このことを知って行動を起こした。

 大沼さんは、町が新年度予算案に老朽化した看板は落下する可能性があるとして撤去費用410万円を盛り込んだことを知り、3月16日に撤去反対を求める要望書を提出。町が17日の町議会で予算案を可決したため、翌18日から町民の集会やウェブサイトで署名を求めてきた。

引用元:タウンメディア 2015年6月30日

署名は署名サイト「change.org」だけでも2,100人を超え、撤去反対と現場での永久保存を求める総計6,502人分の署名を町に提出していた。

ネットで探せばいろいろな情報に偶然出会えたりもするけれど

タウンメディア 2015年6月30日

気になっていたニュースの続報が、地元のタウン紙「タウンメディア」に掲載されていた。全カラー刷りのタブロイド紙で、ふつうの新聞とは違ってつるつるのコート紙が使われているから撮影するとどうしても光が写りこんでしまうのだが、そんなことはどうでもいい。海の日の連休に福島県を訪ねた際に、いつものように神社の宮司さんの奥様から「ストックしておきましたから」と手渡された、浜通りの地元紙やいわきの情報誌の束の中にそのタウン誌があった。

「原発PR看板」復元へ
双葉町が撤去後、保管

 東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く双葉町で撤去が決まった原発推進のPR看板をめぐり、町は17日、将来的な展示を視野に復元可能な状態で保存する考えを示した。同日、いわき市で開会した町議会定例会の町政報告で伊沢史朗町長が明らかにした。議会後、伊沢町長は報道陣に「年内をめどに撤去し、双葉町役場の倉庫などに保管したい」と述べた。撤去に関しては「現物保存を求める声も踏まえて慎重に検討したが、老朽化が進んで危険な状態にあるため」と説明した。

引用元:タウンメディア 2015年6月30日

老朽化対策として解体撤去は譲れない。しかし、現在の推計人口を超える6,502人分の署名を無視することはできず、解体した看板を保管した上で、将来的には「復元へ」とタウンメディアは伝えている。しかし、町が復元を確約したとは記事には書かれていない。これに対して大沼さんは、

「展示する資料館などが実現されれば良いが、具体的に展示が決まっていない以上、保管だけされるようでは困る」は話した。

引用元:タウンメディア 2015年6月30日

以上が記事の骨子だ。あとで調べて分かったのだが、タウンメディアという媒体はネット上にも主な記事を公開していて、実はこの記事もネットに存在していた。しかし、ふだんのニュース探しでは見つけ出すことができなかった。署名提出の後に、原発PR看板がどうなるのかを伝える記事は見当たらなかった。これから先も、ネットで探しているだけで果たしてこのニュースにいつ出会うことができたかどうか…。

たとえば全国紙の新聞の中にも地方版という形で地域の情報がまとめられているページがある。でも、全国紙だと地方のページでも○○県版という県単位の情報が多い。それが福島民報とか静岡新聞みたいな県紙と呼ばれる新聞になると、その中の地域情報はさらに細かいエリアの情報が掲載されることになる。もっと小さなメディアになるとさらにきめ細やかになる。地域の花火大会の予定、子育て支援イベントの紹介、さらに町のアーケードや看板を撤去するかどうかといった問題など。

しかし問題なのは、一市町村の話題に過ぎないようなものの中に、日本中の人に関わる共通の問題が隠されていることがしばしばあることだ。

原発PR看板の話題がまさにそうだ。たまたま出かけた福島で、いただいた情報誌のストックの中に運良く混ざっていたという運命的な出会いを経験した。

地元や地域のその先に「人」が立って待っている

ネットでリンクをたどるという行為の中にも、たまたま偶然のラッキーを経験することはある。しかし、知りたかったことに突然出会ったり、手違いから手にとった文字媒体から思いも寄らないことに辿り着けることは多い。偶発的に出会えることの衝撃の大きさは、ネットと比べるとさらに鮮やかな場合も少なくない。

たしかにネットは便利だけれど、それだけではなくて、本や雑誌やコミックや新聞、それこそ折込チラシに至るまで、いろいろなメディアと付き合っていく方が面白い。

○○だけ、というのが一番つまらない。今回経験したこともそうだったが、もちろん、情報(というよりもっと大切なこと)をもっとも多彩で大量に伝えてくれて、なおかつ互いに刺激しあえるのは人間だ。

話をする。何かについて教えてもらう。知識が広がったみたいでうれしくなる。別の人と同じ話題について話す。ぜんぜん違う意見だったりする。どう考えればいいのか分からなくなる。何らかの行動が伴う話になると判断に悩むこともある。人間関係がギクシャクすることだってあるだろう。意見の違いをどうするのか。

震災遺構の問題なんて、その典型だろう。解体撤去するA案、保存するB案、条件付きで保存するC案とかの選択肢からどれを選ぶかという単純なことじゃないところへ踏み込んで行くことに意味がある。たとえ現実には当事者でなかったとしても、当事者的に考えることの意味がある。

さて、夏休みだ。太陽もギラギラしていることだし、ネットを捨て、町へ出よう!

たとえば原発PR看板を実際、自分の目で見て来るというのも、おもしろいと思うぞ。