須崎町北横町の堀川にメガネ橋と云う石橋がある。その橋の袂にお伊勢の松と呼ぶ大松が最近まであった。幹の周り二丈(約6メートル)余り、樹齢四百余年と云う巨木であった。なぜにその松をお伊勢の松と名づけたか、ここに面白い伝説がある。かの宝永の大地震の節、堀川の橋は全部落ちて流れ、川より南に住む人々のうち逃げ遅れたるものは、西へ西へと駈けこの松の辺りまで殺到してきた。津波は容赦なく押し寄せて来る。人の命も危うく見えた。とっさの場合、この松に登れるだけのものは登った。しかし女子供は意の如くならない。ただ救いを求めて泣き叫ぶのであった。
この時現れたのが、その当時、村でも有名な大力のお伊勢と呼ぶ大兵怪力の男である。(あるいは女とも云う)。みるみるうちに泣き叫ぶ人々をその大松の辺より、片っ端から向う岸へ放り投げて数多の人々を助け、最後に自分はその松に攀じ登って命を拾った、と云うのでそれよりこの松をお伊勢の松と名づけ、その伝説と共に有名になったとのことである。
惜しいことには昭和二十一年の秋頃より、土佐の海岸松に流行した松の枯るる病菌に侵され、ついにこの松も枯死するに至り、昭和二十二年五月下旬、この由緒深き記念の松を伐採するに至りしは、須崎町としての町の宝を失い、誠に残念である。しかし私は、この有名なる松を例い枯れ木とは云え、せめてその実物を写真に残しておくことは地震誌上大いに必要と考え、その伐採中を撮影し、本写真帳へ掲載した次第である。(写真参照)
大震災に対処する須崎町 今後の対策
故寺田寅彦先生の名言…曰く
●災害は忘れた時にやって来る
我が四国の東南沖の海底には、世界的大地震帯が通っている故に、将来百年内外毎に定規的に必ず起こると云う。南海の大地震については、今後いかに科学が進歩してもこれを適確に予知することは困難であろう。しからば何日何時やって来るのか、知れないと云うのならば、我々人類にとってこれほど不安な恐ろしい事はない。故に我々は生あるうちは常にこの不慮の大災害に対処する準備と覚悟をしておかなければならない。想うに我が須崎町は港あるが故に発展するが、一方また港あるが故に大震災の苦衷を嘗めなければならない。いわゆる我々須崎町民はあたかも休火山上に住居していると同様であって、実に不安極まる状態である。
さて、我が須崎町はかくの如き条件にかてて加えて、街の中央を堀川が流れていて、一朝事ある場合この堀川あるがために町を両断せられ、川より南の人は避難通を失い、みすみす貴重な生命を奪われる事になる。この事実は今我々の知るところにおいて、宝永安政の両震災ならびに今回の大地震によって立派に経験することが出来たのである。しかし、我が須崎町はかくの如き歴史を有しながら、なぜか町当局は今日まで平々凡々として、その対策を講じないで来たか。要するに咽喉通れば熱さを忘るる例の如く、「次の大地震はまあ百年先だから、そのうち何とかするだろう」くらいに放任して来たからである。
さて、我が幼少の頃、古老の話を聞くに、曰く、安政の大地震があって最早六十年近くになるから、お前たちのあるうちにまた大変があるかもしれないと。と言ったことが今に頭に残っているが、古老の話が今度事実となって現れたのである。かくの如く百年内外に必ず起こるという事がハッキリ判っているのに町当局はなぜにその対策をしなかったのか。実に遺憾に堪えないのである。
しかし我が須崎町としては、この際一日も早く子孫のために万難を排して、安全の策を講じておかなくてはならないと思う。
さて、その方法として識者間に二つの意見がある。その第一として堀川をトンネルとし、その上を立派な町にすると云うこと。また第二の意見は堀川を全々埋め立ててしまい、その代わり鳥越坂をトンネルにして堀川を大間の方へ流すと云うのである。しかし、何れにしても町の事業としては大きな事業である。
さて、我々の考えは第二の方法が適当だと思う。何となればトンネルにするには莫大な資材と費用を要し、かつ工事上にもいろいろ面倒な問題が持ち上がって来ると思う。しかし第二の鳥越坂トンネルは堀川トンネルの約九分の一に止まり、しかも堀川を埋立する土を取った城山の跡は立派な公園となり、また万一の避難所ともなって、一挙両得の役をする。要するに経費の問題故に堀川トンネルの約半分位の費用で完成するなれば、第二案を採択すべきであると思う。
しかし何れにせよ我々町民は、この問題をいつまでも等閑に付す訳にはならないのである。次に考えられるのは、我が須崎町は全面的に町幅を広げなければならないと思う。中にも新町、浜町方面の裏町へ行くと、わずか一メートル位しかない小路がたくさんある。しかも今度の津波により、ことごとく浸水し、四、五尺位より軒以上来たところもあった。そのため逃げ遅れて溺死した者が多数あったのは実に遺憾である。要するに昔そのままの町なるが故であった。
しかしこの問題は須崎町としては速やかに解決し、海岸通りより城山に通ずる少なくとも五間幅くらいの町を五筋以上造る必要がある。また現在のままでは一朝火災の場合にも、みすみす大損害を招く事になり、かつ衛生上から見ても甚だ危険だと思う。想うに我が須崎町は将来四国南岸の要港として対外的にすばらしい大発展する事を予想するが、家の激増するに従い市区改正はますます困難となるであろう。我々は敢えて町当局の御考慮を切望して止まない。
良い教訓(アメリカ新聞記者の談)
伊太利のナポリ湾あたりを旅行した人達の話に、ヴェスヴイアス山(有名な休火山)麓のイタリー農民が火山の脅威下にありながら、併記で暮らしているのにあきれる。
彼等はヴェスヴイアス山が死火山でないことを百も承知しており、いつ爆発するかも知れず。一旦爆発すれば家はこわされ生命もなくなることをよく心得ているのだ。
しかも永い間こういう危険の中に暮らしているとなれっこになり、あまり心易くなって無関心になってしまう。「昨日起こらなかったことは今日も起こるまい、と独りぎめにしているのだ」とこれと同じように我が須崎兆民は地震体の上に起居しながら今まであまり無関心であったからである。
他山視してはならない。私は敢えて町民諸君に訴うるとともに、このアルバムを後世子孫に伝え残し、次にくるべき大震災対策の為に、我が須崎町民は元より、県下同胞全体の人々がいささか利するところあらば欣幸と致します。
次回は、今回紹介した記事部分の若干の解説を行い、「南海大震災記録写真帖」の紹介記事の締めくくりとさせていただきます。
◆ご協力いただいた竹下写真館の竹下雅典さんに重ねて感謝の意を表します。
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