2004年10月23日17時56分、新潟県中越地震発生
新潟県中部を震源とする直下型地震(マグニチュード6.8)が発生。信濃川と魚野川が合流する川口町では、阪神淡路大震災以来と子供を中心に68人が死亡、約5,000人負傷、12万棟の建物が被災し、10万人以上が避難生活を余儀なくされるという被害が生じた。
山古志村、小国村など山間部の集落では、土砂崩れにより孤立するところが続出。川が堰き止められてできたダムの決壊も懸念された。
高齢化と人口減少が進んでいた山間部の集落では、この地震を契機に人口流出がさらに進み、震災から10年を経過した今日も残された被害の傷跡は深い。
1991年10月23日、カンボジア和平パリ国際会議でカンボジア内戦が終結
ベトナム戦争から続く他国からの干渉、それに端を発する内戦を経て、支配体制を強めていったクメール・ルージュ(カンボジア共産党:ポル・ポト派)によって100万人が虐殺されたとされるカンボジアの内戦。パリで開催された会議で最終合意文書が調印され20年に及ぶ内戦が終結した。
しかし、国連平和維持活動として行われた憲法制定議員を選出する選挙で日本人2人を含む11人がクメール・ルージュと見られる勢力に殺害されるなど混乱が続いた。
100万人。失われた命を表す冷たい数字に抵抗感をおぼえます。長く続いたカンボジアの内戦下、ポル・ポト政権によって殺害された人々の数です。ひとりひとり名前も家族も夢も持っていた100万人。当時のカンボジアの人々の6人に1人が殺害されたことになるそうです。
ベトナム戦争の時代から続く内戦のすべての期間に殺された人は、さらに多くに上ります。
平和の大切さを語るためには、私たち人間の中に存在する悪を見詰めることが不可欠だと思います。100万の人々を殺害したのはジャングルに住む猛獣でも遠い星からやってきたエイリアンでもなく、私たち人間なのです。
10月23日は1991年パリで開催された「カンボジア和平パリ国際会議」で内戦が終結した日です。
100万人の人々を虐殺したとされる人物は、けっして悪魔や死神のような容貌をしているわけではありません。写真によっては温厚な好人物にさえ見える普通の人です。人間の中に潜む「悪」「残虐性」「排他性」「差別」…どんな言葉でも言い尽くせない「闇」を見詰めることが大切なのではないでしょうか。
ジェノサイトを「ある一握りの権力者、異常な精神の持ち主による悲劇」と理解しようとする限り、地上に平和が訪れるのは遠いかもしれません。
歴史の中の10月23日
▼1868年 元号が慶應から明治に改められる
旧暦では慶応4年/明治元年9月8日。ちなみにその年の正月(旧暦)まで遡って明治元年1月1日として適用した。
明治天皇の右の写真は、イタリアの画家でお雇い外国人として多くの肖像画をえがいたエドアルド・キヨッソーネのコンテ画を、福井出身の写真家・丸木利陽が撮影したもの。(Wikipediaの記事による)
▼1868年 一世一元の詔が出される
一世一元とは天皇の在位期間中の年号はひとつだけにするということ。明治天皇の父である孝明天皇は在位期間中に「弘化」「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶應」の七つの元号、六回の改元を経験している。
孝明天皇の七つの元号は歴史上も極めて多い方で、御世のうちに七つの元号を過ごしたのは、平安時代の一条天皇、崇徳天皇、鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、戦国時代の後土御門天皇。
八つの元号は平安時代の堀川天皇が「応徳」「嘉承」まで。
最多の九つは、後醍醐天皇が「文保」から「元弘」「建武」を経て「延元」までと、やはり室町時代の御花園天皇。
改元は天変地異のほか、疫病の流行や戦乱を理由に行われることが多かった。
▼1973年 「遣韓論」に敗れた西郷隆盛が参議を辞す(明治六年政変)
明治4年(1871年)、不平等条約改正のため岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら政府の中枢が欧米に出かけた後の政府では、明治元年以来国書の受け取りを拒否し続けていた李氏朝鮮に対して、武力によっても修好条約を結ぶべしという征韓論が持ち上がる。
これに対して留守政府を預かっていた西郷隆盛は、交渉のため全権大使として単身朝鮮に渡ることで征韓論を主張する人々を説得し閣議決定も得た。西郷は死に場所を求めていたという話も信じられている。
そこに外遊組が帰国し、内政重視の方針を打ち出して西郷の派遣にストップをかける。派遣を無期延期されたことを受けて西郷は参議の職、陸軍大将の位階の返上を申し出て政府を去った。
板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らも翌日参議を辞職した。後の西南戦争などの内乱に至る原因となった。
▼1942年 第二次エル・アラメイン会戦
1941年から主にドイツとイギリスが対峙してきた北アフリカ戦線で、戦いの大きな転換点となった第二次エル・アラメイン会戦が始まる。イタリア領リビアから始まった北アフリカの戦いで、ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団はエジプトのエル・アラメインに迫るが、補給が伸び切っていたこと、兵力差が大きかったこと(戦車の数で2倍、航空機の数で3倍)からイギリス軍の反撃に耐え切れず敗走する。
アメリカ製のM4中戦車300両がイギリス軍に配備されたこと、圧倒的な物量差が戦闘の帰趨を決したとされる。これ以後、北アフリカのドイツ軍は小規模な反撃は行うもののチュニジアまで後退、1943年5月に連合軍に降伏する。
後に英首相チャーチルが「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と語ったとされる戦局のターニングポイントとなった。
▼1944年 レイテ沖海戦が始まる
レイテ島に上陸したアメリカ軍を砲撃し、その過程で遭遇する米太平洋艦隊と洋上決戦を行うというプラン(捷1号作戦)に基づき、ブルネイからレイテ島を目指していた日本海軍の主力・栗田艦隊に対して、米軍の潜水艦攻撃が行われる。
日本側は30分ほどの間に旗艦・愛宕が沈没、摩耶も沈没、高雄が大破(3艦とも高雄型の重巡洋艦)という大きな被害を蒙った。
日本の艦隊は航空機による援護のない中、空襲と潜水艦による攻撃を警戒し、神経をすり減らしながら主戦場へと進んでいくことになった。
▼1954年 パリ協定でドイツの主権が回復
▼1964年 東洋の魔女。東京オリンピックでバレーボール女子が金メダル
▼1991年 カンボジア和平パリ国際会議
20年に渡るカンボジア内戦が一応の終結をみた会議。
▼2004年 新潟県中越地震
影響は震災10年を経た今も残る。
この日が誕生日
◆1931年 ジャニー喜多川
芸能プロモーター、実業家、ジャニーズ事務所の社長。昭和6年、ロサンゼルス生まれ
◆1940年 ペレ
ブラジルの元サッカー選手。サッカーの王様。20世紀最高のサッカー選手。本名はエドソン・アランチス・ドゥ・ナシメン
◆1942年 マイケル・クライトン
アメリカの小説家、SF作家、映画製作者。「ジュラシック・パーク」「ロスト・ワールド」など多数の作品を残した。「五人のカルテ」はテレビドラマ「ER」の原作。作家自身ドラマ制作にも携わった。
◆1948年 岸ユキ
日本の女優。テレビドラマ「サインはV」「ケンちゃん」シリーズなどに出演。NHKの「明るい農村」、東京電力のCM「TEPCOインフォメーション」の印象も強い。
◆1955年 坂口良子
日本の女優。ミス・セブンティーンコンテストで優勝し芸能界に入る。「アイちゃんが行く!」「前略おふくろ様」「池中玄太80キロ」など青春を象徴するようなヒロインを多数演じた。2013年3月27日死去。
◆1991年 眞子内親王
秋篠宮家の長女
この日亡くなった人たち
・紀元前42年 ブルータス
共和制ローマの政治家。養父であるカエサル殺害の首謀者のひとり。マルクス・ユニウス・ブルトゥス。
・1921年 ジョン・ボイド・ダンロップ
スコットランド出身の発明家。空気入りタイヤを実用化しダンロップ社を設立。
・1888年 三島通庸
薩摩藩出身、明治前半の官僚。酒田県、山形県、福島県、栃木県で県令(県の行政を主管する役人でほぼ県知事に相当。政府から任命される)を務める。農民や自由民権運動の弾圧、道路などの土木事業を断行し恐れられた。
後に警視総監に就任。民権派を取り締まるための保安条例が施行されるや、尾崎行雄、中江兆民、星亨らを弾圧。東京から追放している。
・1946年 シートン
1860年イギリスに生まれた動植物学者、作家、画家。代表作「シートン動物記」の挿絵も彼自身の手による。「狼王ロボ」「灰色熊」「裏街の捨て猫」など動物記は刊行されたアメリカはもとより日本でも広く愛された。アーネスト・トンプソン・シートン。
・2003年 宋美齢
中華民国指導者・蒋介石の妻。アメリカ留学経験を持ち、日中戦争当時は蒋介石の通訳としてアメリカの高官との会談で通訳を務める。米英から中華民国への支援を引き出すロビイスト的な存在だった。