2005年10月8日、8600人以上の死者を出す大震災がパキスタン北部で発生
ブロックづくりの建物が潰れるように崩壊することで多くの犠牲者が生じた。あるは、イスラム教のラマダン(断食)の期間で多くの人が屋内にいたことが、大きな被害につながった――。この1世紀の間で関東大震災に次ぐほどの甚大な被害となったパキスタン大地震(カシミール地震)。多くの命が失われた大震災に「解説」は要らない。第三者目線で眺めるのではなく、自分に身近な問題として引き寄せて考えることも重要ではないか。
パキスタン北部で発生した大震災を、いずれ大地震に見舞われるとされる日本の首都圏と比べて、防災、減災を考えたい。
歴史の中の10月8日
▼1203年 鎌倉幕府の重臣・比企能員が滅ぼされる
比企能員(ひきよしかず)は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡と東松島市)を本拠とした平安時代から鎌倉時代初期の武将。源平の合戦で活躍した他、源頼朝の嫡男・万寿(源頼家)の乳母父として、後には娘が頼家の側室として長男・一幡を産み外戚として幕府内での勢力を伸ばしたとされる。
頼家は18歳で家督を継ぎ、二代将軍に就任した翌年、急病となる。そんな最中、比企氏は北条時政に攻め滅ぼされたとされる。幕府の実権を握った北条氏方による鎌倉の記録と、京都の公家などに残される比企家滅亡の経緯には大きな食い違いがあり、実態は定かではない。
状況的には幕府の実権を巡り北条氏と争った比企氏が滅ぼされ、その翌年には頼家までもが北条氏によって謀殺されたとも考えられるが、滅ぼされた家ゆえか、記録がほとんど残されていない。
重臣であった比企能員についての記録が極めて乏しいことは、史書に記された歴史が、時の権力者の視点に立つものであるということの傍証と言えるかもしれない。
(没年月日はWikipediaの記載による)
▼1868年 会津藩の子弟によって組織された白虎隊20名が自刃
明治維新の革命戦争ともいえる戊辰戦争で、松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする会津藩は、旧幕府勢力の中心と目され新政府軍から激しく攻められた。
その会津戦争の最中、10代の少年により組織された白虎隊のうち20名が、燃える市中の様子を見て相刺し違えて自刃したとされる。
明治維新を迎えるにあたっての戦乱の中で発生した悲劇として語り継がれているが、少年たちが自殺に至った経緯について真相は定かでない。
(西暦年月日はWikipediaの記載による)
▼1923年 ベルリン・テンペルホーフ空港が開港
ドイツ・ベルリンの中心部近くにあった国際空港。開港の後、ナチス政権下では都市計画の一環としてモダンかつ壮麗な空港ビルが建設された。第二次世界大戦後、ドイツは戦勝国である米英仏ソ4国によって線量統治されることになったが、後の東ドイツとなるソ連の支配地域に囲まれた首都ベルリンは、市そのものも4国によって分割占領されていた。米英仏の占領地域である西ベルリンは1948年にソ連によるベルリン封鎖で鉄道と道路が封させれ、完全に陸の孤島となった。
食料や燃料はもちろん、あらゆる日用品までが欠乏した西ベルリンに対して、米英の輸送機によるベルリン大空輸が実施される。作戦の立案者は日本への焼夷弾爆撃を推進した米軍のカーチス・ルメイだった。
この大空輸作戦で利用された空港こそがベルリン・テンペルホーフ空港だった。
ドイツの再統一後、ベルリン中心部にあって滑走路も狭かったこの空港は2008年をもって廃止された。
▼1931年 関東軍(日本陸軍)による錦州爆撃
1931年9月18日の柳条湖事件で、満州(中国東北部)での軍事活動を活発化させつつあった関東軍(満州に駐留した日本陸軍の派遣部隊)に対して、政府は不拡大方針をとっていたが、関東軍は密かに満州各地で満州国設立に向けての機運が盛り上がりつつあるように見せる工作を進めるとともに、対抗勢力だった張学良が仮政府を設けていた錦州に対して爆撃を敢行する。
関東軍に対し不拡大方針を伝えるとともに、国際社会に対して日本軍の自発的撤収を主張してた日本政府は、関東軍によるこの独断攻撃により国際社会からの信頼を失っていくことになった。
▼1937年 サントリー角瓶発売
▼1950年 朝鮮戦争で国連軍(米英加豪など17カ国)が38度線を越えて北上
▼1970年 ソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンにノーベル文学賞
「収容所群島」、「イワン・デニーソヴィチの一日」などでソ連の強制労働収容所を描いた。体制を批判する作品が世に出たことは、フルシチョフが進めていた脱スターリン政策によるという指摘もある。
▼2002年 小柴昌俊さん(東京大学名誉教授)にノーベル物理学賞
神岡鉱山の山中の地下1000メートルに設置された巨大な純水の容器と浜松ホトニクス製作の光電子倍増管によって構成されるカミオカンデで、大マゼラン雲の超新星爆発によって地球に飛んできたニュートリノを世界で初めて検出。その功績が評価された。
▼2005年 パキスタン大地震(カシミール地震)
M7.6ながら8600人以上が死亡する大震災となった。地震多発地域でありながら進まぬ住宅の耐震化は、決して他人事ではない。
▼2010年 中華人民共和国の人権・民主活動家で元大学講師、著述家の劉暁波(りゅうぎょうは)にノーベル平和賞
▼2012年 山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長)のノーベル生理学・医学賞が決まる
この日が誕生日
◆1964年 池田菊苗
日本の化学者。湯豆腐の出汁を探求し昆布出汁からL-グルタミン酸ナトリウムを発見した。彼が取得した特許は鈴木三郎助によって事業化され味の素となった。彼の事績を紹介する東京大学大学院理学系研究科・理学部のページにはこんな記載もある。
ロンドンに一時滞在した際には,夏目漱石と同じ下宿に住み,漱石の文学論に大きな影響を与えたと漱石の手記に残されています。
明治という時代は面白い。
◆1890年 ハインリヒ・フォッケ
ドイツの航空技術者、経営者。航空機メーカー「フォッケウルフ」の共同設立者だったが、1936年には会社を追放されているので、第二次大戦中にナチスドイツで開発・製造されたフォッケウルフ社製の航空機には関与せず、おもにヘリコプターの開発に携わった。
◆1919年 宮澤喜一
日本の政治家。第78代内閣総理大臣。戦前から大蔵官僚として入省、戦後のサンフランシスコ講和会議では全権随員として随行している。池田勇人(後の第58代首相)の勧めで政界入りし、池田内閣では目玉政策だった「所得倍増計画」を推進した。長い官界・政界での活動の中では、池田による「中小企業の一部倒産もやむを得ない」発言や「一六戦争」と呼ばれる派閥争い、リクルート事件、自民党政権が政権を返上した際の総理総裁、政権奪回後には総理経験者として異例の蔵相就任(小渕内閣)、省庁再編後の初代財務大臣への就任など、戦後日本政治の生き証人ともいえる人物だったが、2007年87歳で没した。
◆1930年 武満徹
日本の音楽家。現代音楽の作曲家として世界的に高く評価されている。琵琶や尺八をオーケストラによる音楽に取り入れた。純音楽(おかしな言い方ですが)のほか、映画やテレビの音楽も数多く手がけた。
武満 徹:ノヴェンバー・ステップス
KMatz Osakaさんのyoutube
古い録画で音が少し残念ですが、貴重な映像です。
この日亡くなった人たち
・1203年 比企能員(ひきよしかず)
鎌倉幕府重臣。一幡の外祖父
・1203年 一幡
鎌倉幕府第2代将軍源頼家の嫡男。比企能員の孫
・1929年 ヤチェク・マルチェフスキ
ポーランド出身の画家。一度見たら忘れられない画風。エコール・デ・ボザールなどパリで、そして祖国のクラクフで学び、クラクフアカデミーの教授も務めた。
「Jacek Malczewski」で画像検索すれば、彼の絵画の魅力の一端が垣間みられる。
写真は地震で壊れたイスラマバードのアパート。大都市で倒壊した建物に多くの人々や重機が集まっている(ボイス・オブ・アメリカによる)