セントラルパークで写真を撮っていたら、ファインダーの片隅に入ってきた男性ランナーに「Why snap?!」と大声で叱られた。リトルイタリーではお決まりのイカサマゲーム屋台で100ドル巻き上げられそうになったところを婦人警官に助けられた。ようやく友達になったジャマイカ出身の3人組にクレジットカードを盗られそうになった。
「9.11」の5年くらい前に行ったニューヨークでは、たくさんカッコ悪い出来事の当事者になった。まるで絵に描いたようなドジ旅行者だった。
でもいい出来事もたくさんあった。SOHOのギャラリーでは運命的な経験をした。マンハッタンでミツバチを飼っている小父さんにも出会えた。グラマシーパーク近くのオーガニックレストランでは、オーナーさんに話を聞かせてほしいとお願いしたら、ランチタイムが終わった頃にまた来てねと言われた。体よく追っ払われたのなぁとも思ったが、再訪したらコーヒーをすすめてくれて(このコーヒーが無茶苦茶おいしかった)、シェフが休憩中だから料理が出せないのと詫びられ、ずいぶん長くお喋りしてくれた。ほとんど向こうが話していたんだけど。そんな長話のなかで彼女が言った。
「どう、ニューヨークは好き?」
バカとしか言いようがないのだが、「好きとも嫌いとも言えない。とにかく人が多すぎる」と、生な感想をそのまま伝えた。彼女はちょっとさびしそうな顔をして、「そう、滞在中にもっと好きになってくれるとうれしいわ」と言ったか言わなかったか。
異国からの旅行者にとてもよくしてくれた彼女に、寂しい思いをさせたことは旅行中ずっと胸につかえ続けた。帰国してからもたまに思い出してはため息が出た。
WTC ツインタワーの印象
もちろんワールド・トレード・センターにも行った。当時すでに全米一ののっぽビルの座をシカゴのシアーズタワーに奪われ観光人気が低迷していたせいか、エントランスホールはがらんとしていた。エンパイア・ステート・ビルの展望台へは平日でも行列ができていたのに、もっと高いWTCはまるで雰囲気が違う。普通のオフィスビルのようにすら思えた。
でも、エントランスに入ってひとつ驚いたことがある。外から見るとWTCビルは直方体の味気ないデザインにしか思えなかったのだが、エントランスホールの中から外を眺めると、まるで教会の尖り窓が連続しているように見えるのだ。それはほぼ頂上まで続く外壁の支柱が、エントランスホールの天井とほぼ同じくらいの高さから、3本ずつが1本にまとめられているからで、モダニズム建築の意匠が、同時に宗教的空間を連想させるような巧みさを感じた。
屋上の展望台にも驚かされた。驚くも何も、あまりにも「素」なのだ。まるで8階建てくらいのデパートの屋上と変わらないくらいにあっけらかんとした屋上。とくに観光施設があるわけでもなく、柵も低い。エンパイア・ステート・ビルの展望台は屋上ではない途中階だから背中にビルを背負った感じで下界を眺めることになる。それにフェンスは手が届かないくらい高くて、頭上部分にもネットが張られていたような気がする。
しかし、WTCの屋上は「そのまんま」。そっけないほど普通な屋上が、それでもニューヨークで一番高い場所に浮かんでいるという感じ。他のビルに比べてあまりにも高すぎて、まわりの高層ビル群が摩天楼に思えないほどだった。
地方からの観光客がやってきて、エンパイア・ステート・ビルに上って、有名なステーキハウスで夕食をとって、それからブロードウェイでミュージカルを楽しむ。とってもアメリカ的だけど、あまりにもそっけないWTCにも、なぜか不思議と「これもまたアメリカ的なんだろうな」と思わせるものがあった。そのビルの屋上には、また行きたいと思っていた。どうにも言葉にできない不思議なアメリカ的なものに近づくけるような気がして。
そのWTCが崩壊した。
空気の変化
9.11から5年ほど後、ふたたびニューヨークに行った。オーガニックレストランはなくなっていた。ミツバチ小父さんは有名人になっていた。リストランテを探し出すのに苦労するほどリトルイタリーは縮小し、その代わりに中華街が増殖していた。SOHOのギャラリーは健在だったがスタッフはもういなかった。
そして、ワールド・トレード・センターがあった場所グラウンド・ゼロ(爆心地)は、グラウンドレベルから何フロア分も深く掘り下げられていた。犠牲者の名が記された銘鈑が爆心地を囲むように掲げられていた。再建工事はまだほとんど始まっていないようだった。
9.11の5年前のニューヨークからは、いろいろなことが変わっていた。ビルや店舗がなくなったということだけではない、空気の変化のようなものを感じた。いいことも悪いこともあったけれど、様々な意味で多彩で多様性豊かだったニューヨークは、ビッグアップルそのものだった。しかし、9.11の5年後のニューヨークは違っていたように感じる。思い過ごしであってほしいのだが。
独立後、本土が海外との戦いで戦場になることがなかった国が、その国を象徴する大都会を攻撃され多くの命が失われたという事実が、空気を変えてしまったのだろうか。
10年前、愉快で人懐こくて優しくてズルくて愚かしいこの街の人たちと、ごく軽くだけれど付き合って、自分はこの街でドジな旅行者体験をさせてもらった。それはどこか懐かしい経験でもあった。しかし、その頃でも武力と暴力の応酬はすでに世界のどこかで継続中だった。ただアメリカという国の本土に、目に見える形で及んでいなかっただけだ。
2001年9月1日の出来事は、アメリカやアメリカの強い影響を受けてきた国の人たちに見えにくかったものがあからさまにされた歴史の結節点だったと言えるかもしれない。あまりにも多くの人々の命の犠牲によって、わたしたちは現実を知った。
しかし、テロとの戦いという名で、武力と暴力の応酬は続いている。ニューヨークで倒れた以上に多くの人々を巻き込んで悲劇の連鎖は続いている。
そういえば、会社の席が近い人たちがこんな風に話していたのを思い出す。
「あまり意識したことなかったけど、考えてみたら私たちって、歴史的な大きな出来事をたくさん経験しているのよね」
「そうだよ、歴史なんていうと遠い世界の話みたいだけど、キミも自分もその歴史の中で生きているんだね」
同時代という意識。
果てることを知らない応酬の連鎖。ぼくたち人類がそれを断ち切り、そのことを歴史に刻むことができる存在であることを信じたい。
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