姶良カルデラ、十和田火山…。巨大噴火がもたらすもの

貞観地震の後に最後の大噴火

風光明媚な景観とは違い、噴火では激烈な姿を見せてきた十和田火山。もっとも最近の噴火の記録は平安時代の「扶桑略記」延喜15年(915年)の記事に残される。

延暦寺の僧が記した内容は、「延喜15年7月5日(915年8月18日)、朝日が月のように見えた。京都の人たちは不審がった」、「七月十三日(915年8月26日)になると、出羽の国(秋田)から、灰が二寸(約6センチ)積もって各地で桑が枯れたとの報告があった」というもの。

日本列島の上空では偏西風が優勢なため、大噴火による降灰は噴火場所から東方に分布する傾向がある。にもかかわらず、秋田で6センチの降灰があり、さらに遠く離れた京都でも、日が陰るくらいに火山灰が飛来したということになる。(夏場に東北地方で頻発するやませの影響を指摘する研究者もある)

この噴火のピークは、吹き出した大量の火山灰が京都の空を翳らせた前日の8月17日。噴火規模は、この2000年の間に日本列島で発生した火山噴火の最大のもので、火山爆発指数(VEI)は「5」とされる。

VEI=5がどんな規模の噴火かというと、
富士山の宝永噴火でもVEI=4
会津磐梯山が山体崩壊を起こしたほどの明治の噴火でVEI=1
雲仙普賢岳の昭和の火砕流噴火でVEI=3
(VEIが1ランク違うと、溶岩の噴出量は10~100倍近く違う)

姶良カルデラ南にある桜島が、大隅半島とつながるほどの溶岩を吹き出した対象の大噴火が火山爆発指数で5とされるが、噴出した溶岩の量は平安時代の十和田火山の約半分でしかない。

十和田湖はいったん噴火するとたいへん恐ろしい火山なのだ。しかも、十和田火山は約20万年前に活動を開始して以来噴火活動は継続し、約1万年前以降、9300年前、8300年前、7600年前、6200年前、2800年前、1000年前の計7回噴火したことが分かっている。それぞれの火山爆発指数は古い方から5、5、4、4、5、4、5と大規模な噴火が並ぶ。噴火の周期は1000年から2000年だが、いったん噴火すると大噴火になる性質が読み取れる。

さらに不気味なのは、延喜の大噴火が発生したのが貞観地震の46年後ということ。マグニチュード8を超えるようなプレート型巨大地震は、周辺の火山噴火と連動することが多いとされる。貞観地震と十和田火山の延喜の大噴火の間にも何らかの関連があるかもしれない。46年は地球の尺度ではごく短い時間に過ぎないかもしれないからだ。

未来は分からない。しかし、いつか大きな噴火が起こる場所から60数キロしか離れていない場所に核施設が存在することの是非は別の話だ

原子力規制委員会の専門家チームが示した噴火予知の難しさについて、私たちはよく考える必要があるだろう。

東日本大震災の後、次のような言葉が語られるようになった。「地震のメカニズムは究極的には分からない。なぜなら、地震が発生する地下深くに下りていって、自分の目で確かめることはできないのだから」。地震研究者の言葉だった。「お皿が高い場所から落ちれば、たぶん割れるということはわかる。しかし、いつ皿が落ちるのか、どのように割れるかは分からない。地震予知にはそれと同じような難しさがある」といった話も聞いた。未来を予知できるかどうかという問題は、地震研究の科学としての尊さとは別次元の問題なのだということを感じたものだ。

噴気が上がったり、山体が膨張したり、火山性の地震が起こるようになったりと火山の噴火にはさまざまな前兆が知られている。しかし、だからといって噴火予知ができるとは言えない。地震学者が地底の断層面に下りていけないのと同様に、火山学者もマグマ溜まりの様子や、噴火の火道の開き具合を地底に下りて実際に目で見て確かめることはできないのだから。

六ヶ所村の核燃料サイクル施設は十和田湖から67.853 kmほどの場所にある。これをどう考えるかは、噴火時期や噴火規模といった地球の都合を科学によって斟酌するということではなく、純粋に人間側の問題だ。

文●井上良太