12月4日付河北新聞社の記事で、鳴瀬第二中学(鳴瀬二中)が解体されるというニュースを知った。鳴瀬二中は、宮城県東松島市の野蒜地区にあり、震災の津波で大きな被害を受けている。
以下、鳴瀬二中解体を伝える河北新報社の記事の冒頭部分。
宮城県東松島市は3日、東日本大震災で被災した旧鳴瀬二中の施設を全て解体する方針を明らかにした。住民の意向で一部を津波避難ビルなどに活用することを模索したが、建物の高さや管理などの問題で断念した。早ければ来年1月から取り壊しに着手し、本年度内に完了させる。
野蒜地区にある旧鳴瀬二中の施設は北校舎と南校舎、体育館。震災前に耐震工事を終えていたため地震被害は軽微だったが、いずれも鉄筋コンクリート2階の校舎は津波で浸水した。
鳴瀬第二中学校の歴史
鳴瀬第二中学校は、野蒜村立野蒜中校と宮戸村立宮戸中学校を統合する形で、昭和33年9月に創立された。
平成17年4月、市町村合併により、東松島市立鳴瀬第二中学校と改称される。平成23年3月11日に発生した東日本大震災の津波により、校舎、体育館が甚大な被害を受け、使用不可能となったが、鳴瀬第一中学校(鳴瀬一中)の校舎の一部を間借りして、学校を再開する。
平成23年12月、鳴瀬一中の校庭に仮設校舎が完成する。
平成25年3月、鳴瀬第一中学校と統合し、現在、鳴瀬未来中学校となっている。
震災当日
鳴瀬第二中学校の震災当日について、宮城県のWEBサイトに詳細な資料がある。以下は、その資料を要約したものである。
震災当日の3月11日、鳴瀬二中は、ちょうど卒業式だった。式は午前中に終わり、正午過ぎに全校生徒・教職員が校庭に整列して卒業生を見送る。
その後、卒業生41名、保護者37名は、学校近くのかんぽの宿での昼食会に参加する。
在校生は、その日、部活動があった生徒10名以外、全員帰宅した。
地震発生時の14:46、卒業生はかんぽの宿におり、鳴瀬二中には、生徒10名、教職員14名、来校していた業者1名がいたという。
鳴瀬二中には、北校舎、南校舎、体育館があるのだが、北校舎2階に全員避難する。避難後、そのうち2名の生徒は、保護者が迎えにきて、帰宅している。
15:40頃、津波が校舎を襲う。この時、北校舎に避難していたのは、生徒8名、教職員14名、業者1名、地元の避難者3名だった。
記録によると野蒜地区の津波の高さはおよそ10mであり、北校舎の2階床上ほどの高さだったという。鳴瀬二中に避難していた方は全員無事だったが、野蒜地区では、500名以上の方が犠牲になっている。
かんぽの宿にいた卒業生は、建物の4階に避難して全員無事だった。この日、鳴瀬二中にいた避難者は視聴覚室で、卒業生はかんぽの宿で一夜を過ごしたという。
震災を伝える鳴瀬二中
今年の夏、宮戸島を訪れた帰りに、鳴瀬二中に寄る機会があった。
中学校の校舎から200mほど行くとそこはもう海であり、海岸には、日本的な松林が続いていた。学校がある野蒜地区は、松島湾を望む場所に位置しており、宮戸島を始め、奥松島の島々を見ることができ、とても風光明媚な所だった。それだけに、津波の被害が大きかった校舎はひときわ強く印象に残った。
私が訪れた時、被災物のほとんどは片付けられていたのだが、校舎には津波の爪痕が残っており、震災から2年以上たっていたにも関わらず、当時の様子を想像することができた。鳴瀬二中は、津波がどういうものなのか、当事者でなくてもその破壊力と惨状を感じとることができる建物だった。
損傷激しい学校の建物を見た途端、私は急に口数が少なくなり、何か話そうと思いながらも、言葉を見つけることができなかったのを今でもはっきりと覚えている。
またひとつ・・・
南三陸町防災対策庁舎、気仙沼の第18共徳丸など、最近、震災遺構の解体の話を耳にするようになった気がする。
震災から2年9ケ月が経過した今、震災遺構の取り扱いを考える時期にきたということなのだろうか。
ひとつ、またひとつと震災を伝える建築物が取り壊されてゆく。解体を望む地元の方も多くおり、解体の良し悪しについての答えはないだろう。
ただ、危惧されているのが、建物だけでなく、津波の恐ろしさも人々の記憶から少しずつ薄れてしまっていくのではないだろうかということである。
鳴瀬第二中学校
Text & Photo:sKenji