つつじ野 第4回「震災体験-3」

主人は生きていました。海と化した会社近くの建物の屋根の上で、吹雪の中滑り落ちまいと必死に耐えていました。

周囲には同じく会社の駐車場から車ごと流された人が何人もいました。北上運河の堤に一番近い建物の屋根に逃げていた2人は、付近にいた消防隊に助けを求め、梯子で救助してもらいましたが、主人が逃げ延びた建物は堤から20メートルは離れていました。助け出された2人は私たち夫婦を置き去りに出来ないと、その場に残ってくれました。

雪はいつしか止み、凍てつく寒さが体を貫きます。その夜、驚くほど星が綺麗に輝いていたのは、停電だけが理由だったのでしょうか? 今まで見た星空など比べようもないほど美しく輝き、それが余計に悲しく、不安な気持ちに拍車をかけました。南浜の方角の空だけが赤々としていて「きっと日本製紙が燃えているんだ」と思っていたのですが、門脇小学校はじめ南浜町一帯が燃えていたのだと知ったのはだいぶ後になってからでした。

不安定な場所で動けず、寒さからか睡魔が襲いうつらうつらする主人に、時々冗談を交えながら私は大声で話しかけ続けていました。すると、北上運河の水位が急激に下がり始めたのです。溢れるほどいっぱいになっていたのが嘘のように、運河の底がまる見えになっています。津波が来る! 屋根の上で主人は「逃げろ」と騒ぎます。主人を置去りにはできない! でもこのまま残って救助された同僚二人を巻き添えにしては…。

どうする・・・? どうする・・・?
悩んだ末に出たセリフが、「ゴメン!ここまで泳いで!絶対に、必ず引張り上げっから!!」

そうです、私はあの極寒の暗闇の中、主人を泳がせたのです!泳ぎが得意な主人だから必ずいける! と妙な自信がありました。ただでさえ雪にさらされ冷え切った体で、主人は黒く冷たい海に飛び込みました。ものすごい荒い息遣いだけが暗闇の中から聞こえます。初めは主人の同僚二人と一緒に固唾を飲んで見守っていましたが、頭が見えてきたあたりには「頑張れ!頑張れ!」と3人で声を張り上げていました。主人はなんとか泳ぎきってくれたものの、低体温症になり自力で岸に這いあがる力は残っていませんでした。3人で必死に体をつかみ上げ、足を持ち上げてやりながら、やっと引き上げることが出来ました。「急いで!ここから離れるよ!」堤から一刻も早く逃げなければなりません。歩けなくなった主人を引き吊りながら必死に走りました。するとその先には・・・運良く救急車がいたのです!

救急隊の方がすぐさま「低体温ね?!」と救急車へ担ぎ込み、衣服を脱がせ体を温める処置を施してくれました。私たち3人も救急車へ乗り込み日赤病院(石巻赤十字病院)へ到着したのは日付が変わろうとする深夜11時半。黄色いトリアージのタグを付けられた主人は処置室へと消えて行きました。

「取返しのつかないことをさせてしまったのか?」私は不安で病院をうらうらと歩き回りました。院内の椅子は既に避難者でいっぱい。廊下も人で埋め尽くされていました。停電後、自家発電に切り替えた日赤だけにあかりが灯っていたからでしょう、避難した人の数の方が手当をする人をはるかに越えていました。人垣が出来ているテレビの速報テロップを見た瞬間、頭を殴られたような感覚に陥りました。「仙台の荒浜海岸に200を超える水死体」とんでもないことが起こってしまったんだ・・・!と体が硬直しました。

朝方近くに主人がなんとか喋れるまで回復し運ばれてきました。トリアージごとに分けられた簡易ベッドで点滴をしたまま眠る姿をみて、やっと安心して傍らに座り休むことが出来ました。朝になると病院中の避難者が集められ「自力歩行可能な人は全員、準備したバスで内陸の桃生の避難所へ輸送します」とアナウンスされました。これから運ばれて来るであろう、大勢の患者さんに対応するためでした。入院着を着たのままの主人に女川まで歩こうとはとても言えません、従うしかないと諦め、バスに乗り込みました。桃生第一小学校の体育館では、近所の方が炊出しを行い自宅にある毛布を大量に持ち寄って待ち構えてくれていました。炊きたてのごはんで小さくにぎられたおにぎりをいただき、一口かじると今まで忘れていた空腹感が甦りました。そういえば、昨日の出張先でランチを食べてから何も口にしていません。あのおにぎりの美味しさは今でも忘れられません。

何回かバスはピストン輸送され、お昼近くには200人ほどが収容され、体育館は避難者でいっぱいになりました。津波に浸かった人も多く、皆寒さに震えながらストーブを囲みました。主人のずぶ濡れの作業着をジェットヒーターで乾かしながら、ラジオから流れる情報に「女川」がないか、聞き耳をたてます。女川・牡鹿・雄勝・・・半島のほうの名前だけが一向に聞こえてきません。主人が深刻そうな表情で口を開き「もしかして、もしかしたら・・・子供達も、もう・・・」「それ以上言わないで!!」聞いたら自分が冷静でいられなくなる・・・悪いことは一切考えないようにしました。とにかく早く助けに行く手段を考えなければ!生乾きの重油臭い作業着を着た主人と話し合い、夜が明けたら朝一番にヒッチハイクして、ダメなら歩いてでも実家の米山へ行こう。そして車を借りて女川に行って子供たちを、家族みんなを連れて来よう! 腹は決まりました。トイレへ行く途中、数名の消防団の会話の中に女川の一言が聞こえました。すぐに食いつき問い詰めると、帰って来た返事は「女川に行ってきた人の話では、壊滅状態だって・・・」。壊滅状態? 女川が・・・? もはや想像すること自体が困難な一言でした。

写真と地名について

1枚目の写真は、主人が乗ったまま流された車と登り移り助かった建物です。嘘のような話ですが主人曰く「シャッターの部分に車がひっかかり沈む前に飛び移るなら今しかない!と思っていたら畳が流れてきて、ほとんどぬれずに飛び移れた」そうです。結局は私に泳ぐよう指示されてしまいますが、強運の持ち主なのかもしれません。

2枚目の写真は、震災後の主人の会社です。
地震の烈しい揺れの後、みんなワンセグを見ながら車に待機していたそうです。既に周辺は大渋滞で駐車場から一歩も動けず、ほぼ満車状態でした。津波だ!と認識したとたんに、車は一気に2メートル浮いたそうです。道路にうまく流れたおかげで助かったのです。工場は平屋の一階建て。工場内に逃げ場は無かったので、車ごと流されたのは不幸中の幸いだったのかもしれません。周辺でも沢山の方が犠牲になりました。

【地名の説明】

・南浜
主人を救助する前、夜空が赤々としていた南浜は、津波と火災でたいへんな被害を受けた地域です。

・石巻赤十字病院(日赤)
震災後の医療拠点となった総合病院です。被災した中浦からは3.5キロほど内陸に入った場所にあります。

・桃生(ものう)
赤十字病院からさらに10キロ以上内陸の地域です。

・女川
私たちの家のある町です。職場のある石巻で地震と津波に遭った私たち夫婦は、なんとか合流することができました。しかし、こども達や家族がいる女川の状況はまったく分かりませんでした。避難所で得られた唯一の情報は、「壊滅状態」というだけでした。

つつじ野連載について

この記事は石巻エリアの地方紙「石巻かほく」紙上に2013年6月から掲載していただいたものです。女川のママ友から頼まれ、「あんたの頼みなら!」と引き受けたものの、8回分のお品書きを考えると・・・それだけで悩みました。いざ書き始めると700文字の制限に苦労しました。「この言葉足らずの表現で読む人に本当に伝わるの?」とハラハラしていましたが、いざ第1回が掲載されると朝から電話とメールがとまりませんでした!

8回の連載のうち4回は震災の話です。書いている時には「ここまで書く必要ある?」と悩んだこともありました。それでも「当時の様子が手に取るようにわかったよ」と言ってくれる方も数多くいました。「石巻地域以外の人にも読めるようにしてほしい」と勧めてくれる知人もいました。そんな声に後押しされて、この場をかりて記事を公開させていただく次第です。被災地で起きたこと、被災地のいまについて少しでも知っていただき、そして災害から家族を守ることを考えていただくきっかけとなれば幸いです。

那須野公美