つつじ野 第3回「震災体験-2」

地震直後、三陸道・石巻河南インターを下りると辺り一帯は既に大渋滞。停電ですべての信号が機能していませんでした。上司の家族を心配し、石巻赤十字病院近くのアパートへ向かいました。その道中、何十回とリダイヤルした主人の携帯に初めてやっと繋がりました。

無事を確認し、「これから車で会社に送ってもらうよ。たぶんもう電話は繋がらないだろうから、私が行くまで絶対そこを動かないでね!絶対だよ!」と言い電話を切りました。

その日の夕方に予定があったため夫婦で1台で出勤し、車は主人の会社にありました。女川の自宅へ戻るには主人と合流しなければなりません。

上司の奥さんは幼子二人を抱きアパートの駐車場へ避難していました。車に乗せて蛇田駅付近の裏道をノロノロと走り、主人の会社がある中浦を目指しました。国道45号線は車がギッシリで全く動きません。この後を考えると、暗くなる前に食料の買出しが必要です。まだ表情が硬い上司の子どもを見て、自分もだんだんと焦ってきました。「車から降りなければ・・・」

危険だから!と私を主人の会社まで送ると言い張る上司に「もう歩いてすぐそこだから大丈夫! 後はUターンして買出しに行ってね」と半ば強制的に車から降り、私は走り出しました。この判断は本当に幸いしました。そのまま車で会社へ向かっていたら、釜港から通りへ押し寄せる津波を、真正面から見る事になっていたはず。小さな子供二人を乗せた車から果たして全員脱出できたかどうか・・・たぶん取返しのつかない事になっていたでしょう。今でもあの時のことを考えるとゾッとします。

那須野さんがのぼった歩道橋

斜めに走っているのが北上運河

45号線を全速力で走り、運河を渡ろうと歩道橋へ駆け上がると・・・異様な光景に動けなくなってしまいました。目の前のスーパーの駐車場へ車が何台も何台も、次々と押し流されて来るではありませんか!駐車している車もフワリと浮いてはこちらへ向かって押し寄せて来ます。

津波でした。

真っ黒い水が次第に勢いを増しどんどんと押し寄せ、北上運河へ濁流となって流れ込みます。驚いた周囲の人々が一斉に歩道橋に押し寄せ、あっという間に身動きが取れなくなってしまいました。ここにいては危険だと感じ、人を押し除け近くの鉄筋のマンションへ逃げ込みました。運河に水が来たということは、平屋の工場である主人の会社は完全に津波にのまれています。

「私、絶対に会社から動くなって、さっき言った…」。絶望感が襲いました。

いつの間にか外は吹雪きはじめ、どん底の気持ちに拍車を掛けます。助けに行くか? 津波が運河を越えてきたらどうする? 女川にいる子ども達を、私が生きて助けに行かなくては・・・! いろんな気持ちがグルグルと頭の中を駆け巡り、周囲の人たちに聞こえるのでは? とおもうほど心臓が音をたてて激しく鼓動します。雪で全く見えない会社の方角をしばらく見つめていると携帯へ着信が! 岩手県一関市に住む主人の妹からでした。「たった今、お兄ちゃんから会社近くの建物の屋根にいるって電話がきた!救助お願い!」。

あぁ良かった!生きてる!私はその瞬間、会社へ向かって駆け出していました。

つつじ野連載について

この記事は石巻エリアの地方紙「石巻かほく」紙上に2013年6月から掲載していただいたものです。女川のママ友から頼まれ、「あんたの頼みなら!」と引き受けたものの、8回分のお品書きを考えると・・・それだけで悩みました。いざ書き始めると700文字の制限に苦労しました。「この言葉足らずの表現で読む人に本当に伝わるの?」とハラハラしていましたが、いざ第1回が掲載されると朝から電話とメールがとまりませんでした!

8回の連載のうち4回は震災の話です。書いている時には「ここまで書く必要ある?」と悩んだこともありました。それでも「当時の様子が手に取るようにわかったよ」と言ってくれる方も数多くいました。「石巻地域以外の人にも読めるようにしてほしい」と勧めてくれる知人もいました。そんな声に後押しされて、この場をかりて記事を公開させていただく次第です。被災地で起きたこと、被災地のいまについて少しでも知っていただき、そして災害から家族を守ることを考えていただくきっかけとなれば幸いです。

那須野公美