つつじ野 第2回「震災体験-1」

震災前、私たち家族は女川に暮らしていました。祖父、祖母、義母、義弟、私たち夫婦に子供三人の総勢9名の大家族です。玄関を開けば目の前に広がる海。潮の香りと船の音をいつもそばに感じながらの生活は楽しいの一言でした。

そんな女川へ嫁いで10年目となる年に、あの大震災がおきてしまいました。

朝の女川湾は朝日でキラキラと輝いて直視できない眩しさです。その日の海もオレンジ色が美しく、目を細めて眺めていました。

夕方に予定があったので、夫と車1台で石巻へ出勤しました。女川の外れにある我が家から、当時小学校3年の長女と1年の長男もちゃっかり便乗。

女川橋のたもとで降ろすと、いつもはそっけなく行ってしまうのに、その日は二人でピョンピョン跳ねながら両手をブンブン振り、笑顔で「いってらっしゃーい!」と見送ってくれました。嬉しくてその光景がとても目に焼き付きました。まさかその後、安否も知れず幾日か過ごす事になろうとは、その時は知る由もありませんでした。

日中は仙台へ出張。地震発生時は、会社の上司が運転する車で三陸道を矢本へ向けて走行中でした。松島を過ぎた辺りで上司の携帯から聞き覚えのない大きな音。「あれ?なんの音?」と話すうちに車が蛇行し始めました。

「地震だ! 大きい! ついに宮城県沖地震がきてしまった!」

揺れるさなか、とっさに自宅へ電話すると、義母の「ギャー」という悲鳴。何も話せずプツリと切れてしまいました。

「とにかく家へ急ごう」と車をゆっくり走らせながらラジオをつけると、津波の情報は6メートル。大丈夫か?祖母の話ではチリ地震津波は我が家の3軒下で止まったと聞いたが…。すると次の瞬間「津波の高さは10メートル以上」というではありませんか!

「まさか」。全身の血の気が引き心臓がバクバクと音を立て始めました。

つつじ野連載について

この記事は石巻エリアの地方紙「石巻かほく」紙上に2013年6月から掲載していただいたものです。女川のママ友から頼まれ、「あんたの頼みなら!」と引き受けたものの、8回分のお品書きを考えると・・・それだけで悩みました。いざ書き始めると700文字の制限に苦労しました。「この言葉足らずの表現で読む人に本当に伝わるの?」とハラハラしていましたが、いざ第1回が掲載されると朝から電話とメールがとまりませんでした!

8回の連載のうち4回は震災の話です。書いている時には「ここまで書く必要ある?」と悩んだこともありました。それでも「当時の様子が手に取るようにわかったよ」と言ってくれる方も数多くいました。「石巻地域以外の人にも読めるようにしてほしい」と勧めてくれる知人もいました。そんな声に後押しされて、この場をかりて記事を公開させていただく次第です。被災地で起きたこと、被災地のいまについて少しでも知っていただき、そして災害から家族を守ることを考えていただくきっかけとなれば幸いです。

那須野公美