「型にはまる」を考える【素人ライターの備忘録】

「型にはまる」と言えば、どういうイメージをいだくでしょうか。慣用句としては、

 ◆型にはまる
 ・同じような平凡な性質であるさま
 ・既存の常識的な考えかたの範囲にのみ収まるさま

……という意味があるのだそうです。ホメてるんだか、けなしてるんだか、よくわからない言いかたですね。

「平凡だね」なんて言われると、ムッとしてしまいそうですが、常識力が欠如している僕は、型にはまっているほうが良いのかもしれません。

「型にはまる」はラク

ただ、こと文章表現に関しては、「型にはまる」ことが非常に大事だなと思うんです。

たとえば僕は、ビジネスメールを打つときに必要以上に緊張してしまうのですが、幸いにしてビジネスメールには型があるので、見よう見まねに作成すればなんとかなります。

それに、厄介なもので、僕の場合はお題が決められているほうが、よっぽど文章が書きやすい。「●●、××をテーマに文章を書け」と言われれば、そのためにどうしていくかを考えられるのだけど、「何から何までご自由に」となると、かえって困ってしまう。

だからこそ、ほかの人がどんな文章を書いているのか参考にし、話題や中身だけはオリジナルを心がけつつ、見よう見まねで進めていく。実際に書くときは「起承転結」や「PREP法」という、文章の型を意識していれば、それほど大崩れもしません。

型にはまってさえいれば、それなりに安定感のある文章になるのですから、こんなにラクなことはないでしょう。

「型にはまる」短歌、俳句の美学

僕が特に美学を感じるものとして、型にはまったなかで色々な表現を見せる短歌、俳句、川柳などがあります。

短歌で言えば「五・七・五・七・七」、俳句や川柳で言えば「五・七・五」と限られたなかで歌や句をひねらなければなりませんが(さらに俳句には季語もある)、それでも、その型の中から限りなく歌や句が生まれているわけですから、そのポテンシャルは捨てたもんじゃありません。

現代でも、サラリーマン川柳とかマネー川柳とか、楽しいですよね。あれはつい色々と眺めてしまいます。自分でひねるとなるとそれなりの難しさがあるものの、それでも「自分もできそう」と感じられるのは、型にはまれば良いからだと思います。

こう考えると、冒頭で述べたような「型にはまる=平凡、常識的」という概念は必ずしも当てはまりませんね。型にはまりつつ、その中でいかに表現するか。短歌も俳句も川柳も、日本人の性質を持ちながら、クリエイティブさも兼ねたスグレモノだと思うのです。(なんて言えば、極端でしょうか)

「型にはまる」中でどう動くか

文章でも同じです。

たとえばこのシリーズは、僕が「ライターとして思ったこと、学んだことを備忘録的に書く」というテーマが決まっていますし、「ですます調で書く」「PREP法で書き、必ず具体例を示す」など、型を決めているから書きやすい……というところがあります。

一方で、このシリーズを書くにあたって、文章量は特に決めていません。だから、記事によって長かったり、短かったり、自分で書いておきながら毎回ムラも感じています(笑)

あえて課題を挙げるならば、この型にはまった文章の中で、いかにわかりやすく表現するか。型にはまってしまえばラクですが、それだけだと、誰でも書けるような普通の文章に終始します。

上で述べたような短歌や俳句、川柳のごとく、その中でどれだけ個性や面白味を出していけるか。そういう意味で、松尾芭蕉なんかは凄いな……なんて思うのです。

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