モニュメントになった一本松の「奇跡」

奇跡と呼ばれた一本松には、てっぺん近くに避雷針が設置されていた。

葉っぱの付き方がどうだったのか、かつての姿が目に焼き付いているわけではない自分には、直線的な避雷針の方が痛々しかった。

今年の3月11日の前には、レプリカとしての奇跡の一本松が完成し、それから徐々に足場の撤去や周辺の整備が始まるはずだったのだが、人工的につくられた枝や葉の付き方が間違っているとの指摘を受けて工事は中断。一本松は周囲が立ち入り禁止のまま、枝や葉の再製作と取り付け工事のやり直しを待っている状態だ。

根本はコンクリートで埋められたようにも見える

塩害の影響で枯死した後、切り刻まれて遠くに運ばれたこと。
枯死した後までモニュメントとして人工的に建てられてしまうこと。
一本松はいろいろな意味でたいへん痛々しい。

でも高田松原があった場所に立って周囲を見渡せば、痛々しいのは一本松だけではないことが身に染みる。

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奇跡の一本松の前で、ぐるりと360度ターンしてみた。

なにも、ない。

一本松の近くにいると、何人もの人が鉄柵のところまでやってきて、手を合わせていく姿を目にする。北海道のナンバーの車でやってきた老夫婦。バックパッカーみたいな出で立ちで、鉄柵の前に長く長く佇んでいった青年。黒い犬を連れて散歩にやってきて、手を合わせて行った人。

7万本の松林の1本として生きてきた一本松だから、ひとり残された状態では風や潮に晒されて、命を長らえることはもとより難しかっただろう。
昨年の春に枯死したことは、残念ながら仕方のないことだったと思う。

でも、この松の木の「奇跡」はひとり生きながらえたということとは別のところにあるのではないかと思えてきた。

それは、松林の仲間の松よりも少しだけ生きながらえたことをきっかけに、祈りの場として特別な存在になったこと。

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奇跡の一本松は、松原があった頃から、周囲の木よりひときわ高くて目立つ存在だったのだとか。

この橋の左手は古川沼。夏には色とりどりのカヌーの姿も見られたらしい。松原は町の人たちのいこいの場所だったのだ。

市役所も市民会館も体育館も撤去されて、陸前高田の町なかには空に向かって縦に伸びるものがほとんど無くなった。解体工事のタイミングに合わせるかのように一本松は陸前高田に帰ってきて、紆余曲折はありながらも、松原の地に立ち続けてきた。

壊れた橋脚の撤去作業が始まった気仙大橋を渡った先、気仙中学校の前から、川の向こうに見える一本松に手を合わせたり、写真を撮ったりしている人たちもいた。

その日、知り合った人から父親が行方不明になった9歳の少年の言葉が記された文集を見せてもらった。

ぼくのお父さん
どこにいるか
みえないかな。
みえたらおしえて
一本松
おねがいするよ。

引用元:あしなが育英会が発行した東日本大震災の遺児作文の第2集「3月10日まではいい日だったね」

小学3年生の男の子がクレヨンで描かれた一本松の上には、
太く大きく「がんばれ一本松」と書き添えられていた。

陸前高田の町はいまも深い祈りを求めている。

奇跡の一本松

●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)