お願いだから生きのびてください。大げさだと笑われてもかまわないから、助かることを第一に考えて行動してください。
大地震はいつどこで起こってもおかしくないのですから。
地震や津波などの自然災害は人間の力で止めることはできません。また地震を予知することもできません。しかし、自然災害が発生した時に何が起こるのかを想像し、どうやって身を守るのかを、事前に考え準備しておくことで、被害を食い止めることは不可能ではないはずです。
わずか20年ほどの間に、私たちは大地震による被害を数多く経験しました。
・1995年 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)
・2001年 芸予地震
・2003年 十勝沖地震
・2004年 新潟県中越地震(新潟県中越大震災)
・2005年 福岡県西方沖地震
・2007年 能登半島地震
・2008年 岩手・宮城内陸地震
・2008年 岩手県沿岸北部地震
・2009年 静岡沖地震
・2011年 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)ならびにその余震とされる地震
・2011年 長野県北部地震
・2012年 千葉県東方沖地震
人命が奪われた地震だけでも、これだけの数にのぼります。もうこれ以上、地震による災害で命が失われることのないように、地震災害に備えてください。そして、どんな大地震に襲われても、必ず生きのびてください。
進化した社会が自然災害を獰猛(どうもう)にする
「天災は忘れたころにやってくる」と語ったのは、夏目漱石と親交があった物理学者、寺田寅彦(1878年-1935年)とされますが、そのものズバリの言葉は語っていないという説もあります。とはいえ、ほぼ同じ意味の言葉なら寺田寅彦の『天災と国防(自然災害は戦争に匹敵するほど重大な被害をもたらすものだから軍備並みの備えが必要と説いた文章です)』の中に見つけることができます。
畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
(けっきょく、天災はまれにしか起こらないので、前を行く車が転覆したのを忘れたころになって、自分の車もひっくり返るといったことになるからだろう)
昭和9年、『経済往来』という雑誌に掲載された寺田寅彦の文章には、自然災害から身を守る上で示唆に富んだ内容がたくさん盛り込まれています。東日本大震災を経験した私たちにとっても、今後発生する巨大地震を生きのびるためのエッセンスとも言えるものです。彼の言葉をいくつかご紹介しながら、自然災害から身を守る方法について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事
寺田寅彦は指摘します。人間がまだ文明を持たなかった時代、洞穴を住みかとして動物と同じように生活していた頃には、たいていの地震でも平気だっただろう。天変地異が起きても破壊さるような建物すらなかったのだから、鳥や獣と同じように地震の災難を自力で切り抜けることができたに違いない。
しかし文明が進むにつれて人間は自然に逆らうような建造物をつくるようになっていく。高い建物は重力に逆らうものだ。波を遮る堤防などは水圧に抗するものだ。そして、
あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。
その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰あろう文明人そのものなのである。
災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰あろう文明人そのものなのである。
私たちが生活する都市は、寺田寅彦が生きた明治・大正・昭和初期に比べて、はるかに巨大かつ複雑な構造物にあふれています。高層ビルや地下街、巨大なタワーや長大な橋梁などはいうに及ばず、ハイパワーな建設機械で山を切り開いて土地を造成し、海や池を埋め立てた場所には住宅や工場などが立ち並びます。江戸時代には早馬でも数日かかった東京・大阪間を数時間で移動できる交通手段が当たり前のものとなり、さらにアスファルト道路の下には水道、下水道、ガス、電話の幹線、場所によっては電力線や光ファイバーなどが張り巡らされています。地上はもちろん地下から空中にいたるまで文明を支えるインフラによって埋め尽くされているといっても過言ではありません。
しかし考えてみてください。高さ数十メートルを超えるビルや、人工的につくられた地下街、高速で移動する手段、工事のたびに掘り返され地盤の構造が人工的に変更された道路など、数百万年といわれるホモサピエンスの歴史の中では、ごく最近になって初めて体験することになった生活環境です。
いったん自然が「檻を破った猛獣の大群のように」あばれ出した時、そのような“ 不慣れな環境 ”は人間にとっての凶器になりかねません。落下や倒壊といった破壊は位置エネルギーが解放されることによって発生し、人工的に切り開かれた土地は、時間の洗礼を受けていないがために崩壊の危険をはらみ、高速移動手段は速度の二乗に比例する運動エネルギーを解放しかねず、繰り返し掘り返された幹線道路は液状化や地下の崩落によって寸断されるおそれがあるのです。
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)と同規模の地震がもしも首都圏で発生したら、今回の震災の何倍もの被害が発生しただろうという、もっともな話がありますが、寺田寅彦の言葉はその危険性を80年以上前に予言したものです。
部分の傷害が全系統に致命的となりうる
寺田寅彦は高度化した社会における災害の危険性について、次のようにも述べています。単細胞動物なら切り刻まれても平気で生きているだろう。もう少し高等な動物でも、切られた手足が再生するものがある。しかし高等動物になると針一本でも打ち所次第では生命を失いかねない。
未開の時代なら、食べ物であれ衣服であれ、めいめいがそれぞれ自分で調達するものだから、天災で被害を受けたとしても、また自力で調達するよりほかはない。「天変を案外楽にしのいで種族を維持して来た」かもしれない。しかし、
文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。
ものの流通はもちろん、情報の複雑な連絡によって成り立っている現代社会では、天災によって一部地域の機能がストップすることで、国全体の機能マヒを引き起こす危険性があります。現に東日本大震災では東北地方の生産ラインがストップした影響で、日本中の多くの工場で生産ラインが停止してしました。影響は国内にとどまらず、キーとなる部品の供給不能によって世界経済に影響を及ぼす事態も発生しました。次にやってくる巨大地震では、さらに重篤な機能不全、たとえば行政機関が長期間機能しないとか、被災地外からの支援が届かないとか、日本全体の経済の流れが止まってしまうような事態も覚悟しておく必要があるでしょう。
東日本大震災を経験した私たちにできる備え
そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇(いとま)がなかったように見える。誠に遺憾なことである。
『天災と国防』を読んでいると、この記事が80年以上前に書かれたものではなく、つい最近、東日本大震災の後に書かれたもののように錯覚してしまうことがあります。上のくだりなどまさにそうです。天災の危険を理解してはいても、行政も住民も目前のことに忙殺されて備えることがなかったというのです。日本の国土は「特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれている」からこそ、災害による被害を減ずるために「科学的対策を講ずる」べきだとも主張しています。
寺田寅彦は文明の発展が天災の猛威を増長していると警告しました。しかし、だからといって私たちが原始時代の洞窟生活に戻れないのは、『天災と国防』の時代も現代も同じです。
いっさい人が住んでいない土地で巨大地震が発生しても人的な被害は発生しないでしょう。天災が猛威を振るうのは、人が住む土地、文化が進んだ土地、自然に抗するように人間が手を加えた土地で起きるからにほかなりません。
東日本大震災で、私たちはさまざまな現実を目の当たりにしました。街がまるごと流されてしまう惨禍、避難場所に指定された場所での被災、機能しない行政機関、原発事故。もちろん、被災者同士の助け合いや自衛隊や米軍の活躍、ボランティアの活動、世界各国からの支援など、人間の強さを再認識させられる出来事も数多くありました。
しかし、次にくる天災から生きのびる方策を考える時には、あえて美談には目をつぶって、東日本大震災で起こったハード過ぎる現実だけを直視するべきだと思うのです。
行政機関が制定する災害の被害想定は、過去の事例を参考にせざるをえません。人間に未来を知ることができない以上、想定を超える災害が発生する可能性はなくなりません。 “ 想定 ” を超える被害が発生する危険は、現代の日本のあらゆる場所に潜んでいるのです。そして、その時どんな事態が起きるかは、自分自身で “ 想像 ” するほかないのです。
現代日本の生活環境は、生物としての人類の歴史の中で見てみれば、ほとんど「経験値ゼロ」です。そんな環境で非常な事態が発生した時に身を守る方法は、あらかじめ備えておくこととできるだけ冷静に行動すること以外にはないでしょう。備えも、心の準備も、その時何が起こりうるかを想像することから始まるのは言うまでもありません。
命は自分のものです。巨大地震の被害を想定する科学者や行政の人たちには、もちろん精度の高い安全指針を示していただくために頑張ってほしいところですが、最終的に自分の命を守るのは自分です。自分しかいないことを忘れないようにしたいものです。
自然災害が発生した時に何が起こるのかを想像し、どうやって身を守るのかを、事前に考え準備しておくことで、被害を食い止めることは不可能ではないはずです。