静岡県浜松市に避難している川里女久美(かわさとめぐみ)さんは、爆発した福島第一原発から逃れるため、両親を南相馬に残して避難した状況を「まるで戦争みたいだった」と語りました。一旦は福島にとどまると決めたものの、家族を守るために一緒に避難することにした完戸富吉(ししどとみよし)さん・幸子(ゆきこ)さんご夫妻にとっても、去来する思いは同じだったかもしれません。しかし完戸さんご夫妻は、浜松での避難生活を10日ほどで切り上げ、故郷・南相馬に戻ります。そこには経営する会社の従業員がおり、顧客がおり、また復興のための仕事に対する使命感があったのです。家族と離れてふる里へ、それも原発災害が懸念される故郷・南相馬市へ戻ったご夫妻。家族へ、そして郷里への思いを教えてもらいました。
避難していても落ち着かない。仕事のことが頭から離れないんだ
地震が起きて、津波で家が流されて、飯舘村に避難していたら原発が爆発。生まれたばかりの赤ちゃんがいた長女は、放射能が心配で「逃げよう」「逃げよう」とそればかり言っていた。でもオレとしては仕事のこともあるし、何の宛てもなくただ遠くに逃げるっていうのは、正直言って考えられなかったんだ。
南相馬や双葉郡で電気設備工事の仕事をやっているくらいだから、当然、原発関係の仕事をしたこともある。放射能について勉強した。自分の知識からいって、その時発表されていた数値なら「大きな問題はない」と思っていた。
それでも娘が泣きながら訴えてくるんだよ。
「お父さんは大丈夫だって言うけど、なんでそんなこと言い切れるの。もしもってことがあったらどうなの」ってな。何度も何度もだよ。
子供のことを思う娘の気持ちは切実だ。親ってそうだもんな。子供を思えば、少しでも危ないことは避けたいと考えて当然だ。オレたちにそれを止めることはできない。だから「もう行け。オレはこっちに残るから」って娘たちに話したんだ。
娘たちが避難の準備をしている間も、出発した後も、ずっとテレビなんかで原発事故の情報を見ていたんだよ。そのうち思わしくない報道がだんだん増えてきた。どうもあんまりいい方向にいってないなと。そう思うと、行く宛てもなく家族を送り出してしまったことが気がかりで仕方ない。
娘たちに「逃げるんなら家族で一緒に逃げよう」と電話して栃木で合流した。
オレの実の兄は浜松にいる。いよいよ行く場所がなければ、少し遠いが浜松に逃げることもできるだろうと思った。何より、不安な気持ちで避難している家族を放って置けなかったんだ。
それから浜松まで18時間。飯舘のお義父さん、お義母さんたちも含めて12人。車2台で避難したんだよ。荷物なんかは赤ちゃんのもの以外はそんなに多くなかったな。みんな着のみ着のまま。娘たちはとにかく原発から離れたいって気持ちでいっぱいだったと思う。
ようやくたどり着いた兄のところに寄せてもらって何日もしないうちに、浜松市の方で市営住宅と雇用促進住宅を用意してくれた。市の職員も民生委員の人も、周囲の人たちも本当によくしてくれた。とてもありがたかった。
でもな、避難していても、南相馬のことが気になってどうも落ち着かないんだよ。
社員と社員の家族たちの生活を守らなければと思った
とにかく気がかりだったのは社員たちのこと。ほとんど全員が避難していたからな。浪江町や双葉町から来ている人もいた。「どんな状況で避難しているんだろう」とか「困ってないだろうか」とか、浜松にいても考えるのはそんなことばかり。地震が起きた3月11日から日がたつにつれて、給料が未払いなことも気になってきた。
みんな大変な状況なんだから、どうにかして給料を振り込みたかった。でも、取引先の銀行に連絡しても南相馬の支店にはつながらない。それで福島の本店に電話して、担当者になんとか連絡を付けてもらって、社員全員に給料の一部だけでも振り込んでもらえないかとお願いしたら、やってくれると言う。でも振込先が分からないから、社員1人ひとりの携帯に連絡して、どこに振り込んだらいいか聞いて回ったよ。それでなんとか、とりあえず10万円を社員全員に振り込むことができた。
一時払い分は振り込んでもらえたが、本来なら給料日にきっちり全額振り込まなければならないことだ。正規の給与額を振り込むには、会社に戻って給与計算をしなければならない。だから3月28日に南相馬に戻ることにしたんだよ。
南相馬に帰ってきて
南相馬に帰ってみたらずいぶんと人が少なくなっていた。それでもオレが帰って来たことを聞きつけて、「いつ仕事を再開するのか」って言ってくれる人がけっこういたんだ。オレのところでは立ち入り禁止になったエリアにいくつも仕事先があったから、原発事故のせいで大損害なんだよ。それでも、震災の後、通信設備の復旧とか住宅や工場の設備工事といった仕事の引き合いが入ってくるようになった。
会社をたたむという選択もなかったわけじゃないが、オレとしては社員やその家族に対する責任があるだろう。失業保険といっても100%ではない。被災した社員たちが生活を立て直していくには、当然お金が必要だ。仕事があるんだったら一日も早く会社を再開したい。そうするしかないと思うようになったんだ。
避難している社員たちに「仕事はあるから南相馬に戻れる人は戻って来てほしい」と連絡する。仕事の話をしてくれたところには「何日になれば、何人くらい戻って来てくれそうだから」と仕事を始める時期のことなんかで相談する。そうやって少しずつ仕事を再開していったんだ。
たとえば、通信設備の工事には専門的な技術や技能が必要だから、チームが組めるだけのメンバーが揃わなければ、いくら引き合いがあったって仕事は受けられない。電気工事でも同じだ。避難生活で社員がばらばらになった状況から事業を再開するのは大変だったよ。
社員たちも苦労したと思うんだ。ふつうの状況だったら、会社が再開するならすぐにでも戻りたいってことになるだろうが、当時この辺りは「緊急時避難準備区域」に指定されていたからな。本人は仕事に復帰したいんだけど、奥さんや家族が南相馬に戻りたくないという人もいた。今でも週末しか家族に会えないという社員もいる。
うちの会社に限らず、南相馬で仕事を再開した会社ではどこでも同じような状況だ。いろんな噂も飛び交ってるよ。奥さんは関東の避難場所からどうしても戻りたくないから別居。そのまま離婚してしまった話とか、別々に暮らしているうちに不倫で家庭が壊れてしまった話とか。
家族を養っていくために仕事に復帰して、家族の安全を考えて別居生活でも頑張っていたのに、家庭が壊れてしまう。そんな話を聞くと、やり切れなくなる。単身で南相馬に戻って頑張ってる人たちはたまらないと思う。
うちみたいに妻が一緒に戻ってくれるとありがたいんだけど、こればっかりはそれぞれの家庭の事情があるからな。
原発事故がなかったら、娘たちも浜松に行くことはなかった
南相馬でずっと仕事をしてきたから、直接・間接に原発の恩恵は受けてきた。それでも原発はノーだ。原発事故のせいでどれだけの家庭が崩壊したか。家族と離れ離れになって、どれだけたくさんの人たちが苦しんでいるか。数字で表せるものだけが被害じゃないんだ。
原発があるから帰れないという人がたくさんいる。子供たちが減少したせいで小児科が休業した。だから戻りたくても戻れないという人もいる。避難先で借上げ住宅に入居した人からは、子供がストレスで参ってしまったという話も聞いたよ。その人は子供を安心させるために家を買ったそうだ。いつまた転校するかもしれないという不安が、避難先の生活になじめない理由だって言うんだな。
南相馬を離れた人、南相馬に戻れない人、理由はいろいろだが共通していることがひとつある。
それは「原発のせい」ということだ。
(隣で静かに富吉さんの言葉にうなずいていた幸子さんが話してくれます)
娘たちも、原発の事故がなければ行く必要なかったんだものね。小学生の孫2人のことだって、いまは感受性が強い時期だから心配なの。学校が変わったのもそうだけど、南相馬でやっていた習い事もできなくなった。スイミングにも行けなくなった。環境が大きく変わったことは、孫たちにとってもやはりたいへんだと思うんです。
それでも娘たちは、孫たちや家族を守るために行っているの。もしも私がいまの仕事ではなかったら、会社を辞めて孫たちの面倒を見るために浜松に残ったかもしれないって思うこともあるのよ。でも、仕事をしていると責任があるでしょう。仲間もいるし、お客さんもいる。それに、避難している人たちはきっと生活も大変だと思うから、稼げる側ががんばらないとね。
離れて生活するようになってからも、何度か向こうに行ったり、こちらに呼んだり、ちょうど中間の神奈川にいる息子のところで集まったりという家族のイベントも続けたいと思ってやっています。身内がみんなで顔を合わせて、食事をしたりするんです。でも、そうするためにも、お金がかかるのよね。
私としては、離れているからこそ、そういう機会をできるだけたくさん持てるようにしたいの。だから働いているようなものかもしれませんね。
(「んだな」と富吉さんもうなずきます)
オレの本心を言えば、今すぐにも家族を戻したい。でも娘たち夫婦も、自分たちで考えていまは戻れないと言っている。子供のことがまず心配だからってな。若い人の考え、年配者の考え、それぞれの考えはある。だけど、戻るか戻らないかを決めるのは、その家なりの意見だ。オレたちはこの状態を受け入れるしかない。なりゆきを見守っていくしかない。なんか、難しい話だろう。
でも、思うんだ。こんな難しいことを考えなければならなくなったのだって、原発のせいなんだな。
子供や孫がいた頃には、「静かにしろ!」なんてよく怒っていたけれど、それくらいがちょうどいいもんなんだ。最近、少しずつだけど人が戻ってくるようになって、子供同士の何気ない会話とかが聞こえてくると、ほっとするもんな。
Profile
ご夫妻ともに、現・南相馬市の出身。富吉さんは南相馬市原町区で電気設備会社を経営。幸子さんは生命保険会社に勤務。お二方とも、地元に密着した仕事に長年携わりながら、3人のお子さんを育て上げた。上のお2人はすでに結婚され、3人のお孫さんのおじいちゃん・おばあちゃんでもある。一番下の息子さんもフランスへの音楽留学から震災直後に帰国され、現在は神奈川県でサックス奏者としての活動を始めている。子育てがようやく一段落したその年に見舞われた大震災。自宅も会社の設備の多くも失われてしまったが、従業員の生活のため、お客さんのため、そして自分たちの未来のために、南相馬という町で明るく前向きに毎日を送っている。
川里女久美さんとご両親の完戸富吉(ししどとみよし)さん・幸子(ゆきこ)さんたちご家族の震災後を紹介する記事はこちらです。
文・構成●井上良太
取材協力・写真協力:NPO法人伊豆どろんこの会