巌流島は・・・
正式名称ではない。
巌流島とは、かの有名な宮本武蔵、佐々木小次郎の決闘の地として有名な島です。海抜は10mにも満たず、面積も狭い。写真で見ても1対1の決闘が似合いそうな形をしています。※余談ですが、これでも明治時代の開発(埋め立て)によって、かつての5倍ほどの大きさになったと言われています。
さて、そんな名高い巌流島ですが、そもそも”巌流”とは、佐々木小次郎の剣術の流儀と言われています。つまり、小次郎の流儀から名付けられた通称であり、正式な名称ではないのです。ではその正式な名称はと申しますと、船島(ふなしま)と言い、住所は下関市大字彦島字船島なのです。しかし、この名前も含め、巌流島にまつわる話題はあやふやな点がまぁ多い!
実はいろいろとあやふやな島
あやふやな点その1.
”厳流”はそもそも異字表現。この闘いに関して触れている史料がいくつかあるのですが、史料によっては「岩流」「岸龍」「岸柳」・・・、読みは全て「ガンリュウ」。そう、他にも読み方があり史料として統一されていないのです。”厳流”という名前自体、元をたどれば曖昧だと言えるでしょう。
あやふやな点その2.
決闘の日も実はよくわかっていない。佐々木小次郎が没した日付は一般的に1612年(慶長17年)4月13日として解釈されています。これは豊田景英によって記された『二天記』に掲載されている説であり、ここから広く認知されました。しかし、最も古い資料にはその11年前にあたる1601年(慶長6年)とも記されています。その他にも諸説ありますが、どちらにせよはっきりしているわけではありません。佐々木小次郎に至っては没年齢も不明のため、実際のところ決闘時武蔵と小次郎はどちらが年上であったのかもはっきりしていないほどです。広く認知されている1612年説に則って解釈するなら、2012年で決闘400周年を数えます。
あやふやな点その3.
見る角度で呼ばれ方も違う。正式名称こそ、船島となっていますが、これは関門海峡を挟んで山口県側からそう呼ばれているに過ぎません。と言うのも、九州方面からは向島と呼ばれていました。今では広く巌流島と呼ばれていますが、名前も曖昧と言えば曖昧です。”厳流”にしても、決闘に敗れた小次郎の流儀であり、勝った武蔵にちなんでいない点も不思議と言えば不思議です。 何かとはっきりしない点が多い巌流島です。しかし、それでも時代を超えて語り継がれる、大いなる歴史でもあります。はっきりしないくらいの方がロマンがあって良いかも知れませんね。
(関門海峡に浮かぶのどかで小ぢんまりとした島。これでも開発で大きくなった。)
◇参考ページ◇「考証 巌流佐々木小次郎」(巌流佐々木小次郎について考察するファンサイト)
「巌流島ホームページ」(下関市観光交流部観光政策課HP内)