原爆供養塔から少し南側に進んだところにある慰霊碑。下の土台には亀の形。上には2頭の龍が彫られた石碑で挟むように柱が建てられており、これまで見てきたものとは少し異なる雰囲気があります。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
この形は「死者の霊は亀の背に乗って昇天する」と韓国の故事を反映させたもの。日韓併合で植民地となった朝鮮半島からはたくさんの人が日本へ移り住むこととなり、広島市にも生活していた人も多かったそうです。
そして、戦時中。この時も市内には日本のために働かされた人たちがいました。朝鮮半島からやってきて被爆で亡くなった方は、現在名簿にあるだけでも2663名。(実際に亡くなった方は2万人以上だと言われています。)
元々は今の場所よりも西側、公園内から本川橋を渡ったところに建てられましたが、それは被爆により犠牲になった朝鮮王家の末裔(まつえい)が一度救出されたことが理由でした。
ただ、やはり公園の外にあることに対して反発がありました。他の慰霊碑とは異なり、川を挟んで外に建てたのは差別的な意味があるのではないか。こういったことから議論が活発化し、1999(平成11)年に現在の場所へと移設。
場所については各々考えはありますが、個人的には戦争を知らない世代が触れやすいという意味でも移設したことの意味は大きいと思いました。
ガイドさんは「戦争を知らない人からすれば、原爆投下の悲惨さが伝えるこの公園を見て、単に日本が被害者だったと思うかもしれない。でも、多くの人を戦争に巻き込んだという意味では被害だけでなく加害の側面も感じられるのがこの慰霊碑なんです。」と言っていました。
語りの中で何度か出てきた「今の世代の子たちがまずは知ること」。ガイドさん曰く今は広島県内の子どもたちであっても関心が薄れていっているようです。
8月6日
今年は土曜日。原爆投下から77年が経ちます。平和式典が行われますが、自分はまだ当日に広島を訪れたことはありません。この日だからこそ感じられることがあると想像しますし、いつか訪問したいとは思っています。
子どもたちに目を向けると平和学習の一環として全国各地で行われる学生さんたちの派遣事業(この日に中心に広島市を訪問)も貴重な機会だと思います。
平和学習という点ではガイドさんが読んでくれた「生ましめんかな」。栗原貞子さんという方が書いた有名な詩で、恥ずかしながら今回初めて知りましたが、これが忘れられません。
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
引用元:https://bngkkn.hiroshima-u.ac.jp/database/KURIHARA/umashimenkana.html
どんなに絶望的な状況であっても、人々が助けあって新しい命が生まれていったこと。だからこそ今があるということ。この詩から感じられることは各々あると思います。