2017年9月23日に石巻市で開催された「復興の森づくり植樹祭」に参加してまいりました。
当日は500名以上の方と協力をして苗木を植樹です。我々のグループは静岡県、神奈川県から参加させていただきましたが、隣で作業をされていた方たちも東京、埼玉から来られたようで、県外からも多くの方が参加した楽しくも充実したイベントとなりました。
また、こちらのイベントに先駆け我々メンバーは「アイリンブループロジェクト」で活動をされる方々へご挨拶、および交流を深めることができました。
アイリンブループロジェクトは、
3.11でお亡くなりになられた愛梨ちゃんの
最後の場所に咲いていた一輪の白い花「あいりちゃん」(フランスギク)を
大勢の方々に関わって頂き育て増やし、
その花を通じて多様な物語を作り、
命の大切さを世界へと
繋ぐ企画です。
語り部を聞いたことにより更に深まった悲しみ
語り部をしてくださったのは、石巻市日和幼稚園の送迎バスが津波にのまれた悲劇で命を落とした佐藤愛梨ちゃんのお母さま、佐藤美香様。
事前にこの悲しくつらい出来事のことは調べていたものの、やはり犠牲となったお子様のお母さんから直接聞く話は心を強く揺さぶりました。
高台の幼稚園にとどまっていれば津波に巻き込まれることもなかったのに、なぜ子供たちをバスに乗せて出発してしまったのか。なぜバスが津波に巻き込まれた後、園から歩いてほんの数分の徒歩で行ける現場へだれも園のスタッフは助けに行かなかったのか。このほかにも「どうして・・・」と思わずにはいられないことがたくさんあり、驚きと怒り、そして心の底からとめどなく湧いてくる深い悲しみで頭の中がいっぱいになりました。
自分にも4歳と2歳の息子、娘がいます。犠牲になってしまった子供たちの当時の年齢に非常に近いのです。子供たちがどれだけ怖かっただろうか、苦しかっただろうか、そして遺族の方々の悲しみはどれほどだったのだろうと、自分の子どもたちを重ね合わせて考えると、ただただ辛く、悲しくなります。
この悲劇が起こったことを絶対に風化させてはいけない、と強く心に誓いました。
アイリンブループロジェクト、菅原様の想い
佐藤様の語り部を聞かせていただいたのち、アイリンブループロジェクト実行委員会代表、菅原様と食事をご一緒させていただきました。
実は、ご飯を食べている間も語り部を聞いた際に湧いてきた心の中のたくさんの思いが浮かんではまた違う感情にかき消され、自分の頭の中が全く整理ができていない状況だったのですが、菅原様の語ってくれた一つの言葉が自分に「気づき」を与えてくれました。
「一生懸命がんばんなきゃ」
この出来事をこれほどの深い悲しみへと導いている原因は、「話を聞く限り園の人達がベストを尽くしているとは到底思えないから」だ、と気が付きました。
もちろん、どんな経緯であろうとも幼い子供が事故、事件で命を落としてしまった際の悲しみははかり知れません。ただ、もし当時、犠牲となった子供たちと一緒にいた人達が子供たちの命を守るにはどうするのがベストなのかを必死に考え行動していたなら、その結果が残念ながら悲劇的なものであったとしても、悲しみの種類はまた違ったものになっていたのではないでしょうか。
自分は震災発生時、震源地から遠く離れた静岡にいたので、石巻にいらっしゃった人達がどれほど恐ろしい体験をされたのかは想像ができません。あまりの恐怖に正常な判断をするのは難しかったのかもしれません。でも、一生懸命助けようとしてくれたとはどうしても思えないのがとにかく辛いです。
この、「一生懸命がんばる」ことを頭に思い浮かべたとき、群馬大学大学院の片田敏孝教授が提唱する「津波避難の三原則」を思い出しました。
第一「想定にとらわれるな」
第二「最善をつくせ」
第三「率先避難者たれ」
いずれも深く関わりがありますが特に2番目の「最善をつくせ」はまさに一生懸命がんばるということとダイレクトに結びついてくると思います。その時その時にベストをつくすことが生存確率を上げる、仮にその結果が望んでいたものではなかったとしても、がんばることができなかった時と比べると気持ちのあり方が大きく異なってくると思うのです。
菅原様は「震災が来たときはなるようにしかならねえ、と言う方は一生懸命がんばることを放棄して逃げている」とおっしゃっていました。
一生懸命がんばる。
この一見当たり前のように感じることが最も大切なことであることは間違いありませんが、一方で実は難しいことなのかもしれません。そのことをみんなに知ってほしい、諦めないで震災と、そして弱い自分と戦ってほしいという強い思いを感じました。
来年の3月には静岡県三島市での講演会を行っていただくべく準備を進めています。
自分はこのイベントを通じて、「何げない日常がいかに幸せかを多くの人に気づいてほしい」という思いを持っていましたが、もう一つ、伝えたいことが増えた東北の旅となりました。