みちのく見語り聞き語り百ばなし~2~

5.ダルトン式(大迫2)

大迫の歴史的建造物で出会ったチャーミングな老婦人の「ダレトモシキ」という呪文のような言葉に引きつけられるように、古い建物の2階に上がっていくと、そこには彼女が「先生」と呼ぶ人物がいた。先生は古いおひな様を見学に来た人たちに、大迫(おおはさま)の町のむかしの様子を話しているところだった。

割り込むわけにもいかず、おひな様以外の常設展示を見て回っていたら、老婦人が「ほら、ここに!」と指差した。彼女が指差した壁には3枚の説明パネルが掛けられていて、それぞれには「菅原隆太郎先生の業績」「菅原隆太郎先生のダルトン・プラン教育」「菅原隆太郎先生と宮沢賢治」とタイトルが記されていた。

呪文の謎が氷解した。ダレトモシキはダルトン式の聞き違いであった。

ダルトン式教育というのは、1920年にアメリカ・マサチューセッツ州のダルトンにある小学校で始められた児童の主体性を伸ばす教育法で、たった2年後の1922年には日本に伝えられている。大迫出身の菅原隆太郎先生は、盛岡や東京の小学校で高く評価されていた人物で、地元大迫の人たちに乞われて大迫小学校の校長先生をしていた頃、この小学校でダルトン式の教育を実施したのだという。当時の日本で十指に入る先進的な教育が岩手県のしかも山間部の大迫で行われていたことは、教育界で大いに注目されていたらしい——。

そんなこんなを展示パネルから勉強していたら、先生(もちろん昭和38年に永眠された菅原隆太郎先生ではなく、現在のこの建物でアウトリーチ活動を行っている先生)のレクチャーが終わった。チャーミングな老婦人が「先生、先生、この人がダレトモシキのこと教えてって」とすかさず声を掛けてくれた。

東北の男性らしい、くっきりした目鼻立ち。そしてそれを隠してしまうくらいに眉毛が豊かで、その眉毛の下でニコッと時おり笑みを含んだ瞳を輝かせる「先生」は、先生というより山仕事を専門にしているかのような、遠野物語に描かれた人物が飛び出してきたような、そんな老先生だった。(もしかしたら、建物の1階に展示されている「猫の事務所」の事務長役の猫にも、眉毛以外は通じるものがあるかもしれない)

「早池峰(はやちね)と賢治の展示館」(旧・稗貫郡役所)一階にある宮沢賢治「猫の事務所」の展示

老先生はダレトモシキの実像について、説明パネルには書かれていない本当のところまで詳しく教えてくれた。菅原隆太郎先生が始めたダルトン式教育にしても、いまでは先進的だったと持ち上げられてはいるものの、当時は賛否両論あって大変なご苦労だったこと。反対する人たちがたくさんいても、ある種の決意をもって菅原隆太郎先生がこの山里でダルトン式教育を推し進めたこと。やがて戦争の時代に入って、自由教育的なダルトン式への批判が高まっていったこと。大迫の小学校で10年に及ぶダルトン式教育を続けた後、昭和7年(満州事変で中国での戦争が本格化した翌年)には盛岡に異動されたこと。しかし、盛岡で教鞭を置かれた後、昭和13年には大迫の人々に乞われて、町長として町に戻ってきたこと。

老先生の菅原隆太郎先生についてのレクチャーは、菅原先生がいかに不屈の人であったかを教えてくれるものだった。

「わたしの母親なんか、亡くなるまでずっと言ってたのす。わたしはダレトモシキで教えられたんだからって」

老婦人が補足するように教えてくれる。昭和の初め頃、この山あいの町で最先端の教育が行われていたことは、この町の人たちの誇りなのだ。いまではそのことを知る人も数少なくなって入るが。

老先生と老婦人の話は、昭和の初めの頃までは、小学校の教育方針は個々の小学校の校長先生に委ねられていて、公立の小学校でもさまざまであったことを教えてくれる。そして、15年戦争と呼ばれる昭和の長い戦争の時代の中で、国によって小学校教育も統制されていったこと。統制が厳しくなる中でも、菅原先生の教え子たちの間では、菅原先生が行った学校教育に対する愛着がたしかにあったということ。

——そう、ダレトモシキという言葉を通して。

ダレトモシキという言葉が呪文にしか聞こえない「いま」、あるいはそんな現在を生きているわたくし自身の問題があぶり出されるような体験だった。

しかし、ダレトモシキの話はこれで終わらない。

この話の後、眉毛の豊かな老先生は、菅原先生と宮沢賢治さんの交流が、賢治さんの文学を大きく変えるものになったというお話しをたくさんしてくれることになったのだ。引き合わせてくれたチャーミングな老婦人が何度も腕時計を確認するくらい、そしてわたしはわたしで、ひなまつりが行われている本館に行く時間が気になって仕方なくなってしまうまで。

大迫でのダレトモシキの話はまだまだ続く。(大迫2)

(大迫3に続く)

6.「神」とつく天皇は三人だけ(遠野1)

昔ながらの風情が残る町家で、江戸時代から伝わる雛人形や物語雛が飾られる遠野の春。古くからの商店が建ち並ぶ一角にある酒屋さんに立ち寄ると(お酒を買いにではなく、おひな様を見るためにですよ)、その店のお母さん(お祖母ちゃん)が迎えてくれた。

遠野市の歴史ガイドの鑑札(つまりは資格者であることを示す名札なのだが、木製のその名札は鑑札と呼ぶにふさわしい物だった)を片手に握ったお母さんが、酒屋の一角にあしらわれた展示場で、物語雛の説明をしてくれた。

「ここにあるのは加藤清正。虎退治で有名な武将です。足につけてる行縢(むかばき・オーバーズボンみたいなの)は本物の虎の毛皮なんですよ」などといろいろと説明して下さる。

圧巻だったのは、神功皇后とその御子、応神天皇を抱く武内宿禰(たけしうちのすくね)の物語雛。それぞれ高さ30センチ近くありそうな大きな人形を示しながら、お母さんは神功皇后が百済への出兵を率いた話から、当時身ごもられていたから鎧の上から太い帯を締められていたこと、宮廷に凱旋する前に、筑紫の国(福岡)の浜辺で御子をご出産されたことなど、まるでその目で見て来られたかのように詳細に、感動をもって話して下さった。

「天皇陛下のお名前に神がつくのは限られているのよ。どなたとどなただと思う?」

神功皇后が筑紫の浜でお生みになられた御子が、のちの応神天皇ということはすでにお母さんの説明にあったので、「応神天皇と…」と言うと、

「何をおっしゃるの、まずは神武天皇でしょ」と叱るように指摘された。

神武天皇と神功皇后、そして第15代天皇とされる応神天皇。あるいは第10代天皇の崇神天皇を合わせて天皇陛下としては三人なのよ、とのこと。

お母さんが説明して下さった神功皇后の雛人形は実に見事なものだった。「♪顔が命の~」なんてコマーシャルの現代の雛人形を想像してはいけない。無人格なお姫様とお内裏様といった今時分の雛人形とはまったくの別物、衣装にもそのお姿にもお手にされている物ひとつひとつにも、そしてもちろんお顔立ちにも、その人らしさが溢れている。(市役所から撮影ご遠慮下さいとの指定が来ていたので、写真はありません)

「いつ頃のものかって、よく分からないのですよ。大学の先生が繊維の破片をピンセットで採取して顕微鏡みたいなので調べてくれたこともありましたが、けっきょく時代は分からずじまい。ただ人形の様式から江戸もかなり前の方の時代のものでしょうということでした」

江戸時代といえば徳川幕府が日本中を支配していた感じがするが、幕府からも京都御所からも遠い東北の地に残された人形は、日本書紀や古事記に伝えられた物語を生き生きと写し取ったかのようなもの。ふと、明治維新につながる討幕運動が全国に広まった背景に、雛人形とともに代々伝えられ、浸透していた皇室への尊崇の思いがあったのかもしれない。そんなことまで考えさせられた。

まるで女講談師を思わせるような歯切れの良い説明(扇子で講壇をペシペシなんてことはしないけれど)を聞きながら、遠くいにしえから伝統がつたえられるということがどういうことなのか、考えずにはいられなかった。

このお酒屋さんのお母さんが、御年89歳だと教えられてなおこのこと驚いた。実はわたしの亡くなった父と同じ年。学校で教えられた歴史といえば、神武天皇に始まり今年で2600うん十年となる皇国史観。いまでは神話となされることまで正史として教えられてきた。青春時代は勤労奉仕に明け暮れ、アルファベットすらまともには教わらなかったという。

「だけど、むかしから本を読んだり勉強したりするのは好きだったからね」

笑顔で話してくれるお母さんの手元には、教育委員会から「プレゼント」として届けられた歴史資料のコピーの束があった。彼女の家のおひな様に関連する部分はマーカーで囲まれたり、重要な箇所には赤線が引かれたりしている大切な資料だ。彼女自身が子どもの頃に教わった歴史の誤りは知っている。それでも、そんな時代だったということも含めて伝えなければと思い89歳という年齢をおして、いまもガイドを続けていらっしゃる。

「うちは酒屋だから、洋酒のラベルを読むのにもアルファベットは必要でしょ。だから勉強しましたよ。同じ横文字でもイタリア語とかフランス語とか、英語とは全然違うから大変ではあったけど、でも好きなのね。60を過ぎてからイタリーにも行ったのよ、ワインの勉強のためにね。だけどイタリーに行くのに「ボンジョルノ」しか喋れないのではだめだと思ったから、イタリア語だって勉強したのよ」

そんな彼女は酒屋という仕事柄、若い頃からトラックを運転する仕事も続けてきたせいで、腰を圧迫骨折してしまい、腰から下は人工関節に置き換える大手術も受けられたのだとか。

「だけどね、亡くなった社長は勉強することは大切だと勧めてくれていたのよね。いっぱい仕事して稼いで、少しでも空いた時間は勉強しなさいって。わたしも勉強するの嫌いじゃなかったからね」

3月3日はひな祭り。都会でイメージするおひな様はただただ可愛らしいばかりのものかもしれぬ。女の子らしいおべべを着て、ピンク色が目立つ食べ物を食べて、そして雛人形の前でお歌をうたって。

そんなステレオタイプのひな祭りとはがらっと違うひな祭りが、山深いこの土地ではいまも伝えられている。代々伝えてきた人たち1人ひとりの力強い人生とともに。

折しも今年は井伊直虎が注目されているが、戦国時代以降、全国には女性の殿様が3人いたと伝えられている。そしてそのひとりは、遠野に縁深い八戸氏(南部氏)の清心尼だったという。

亡き夫に代わり外征した神功皇后が多くの旧家で物語雛として飾られてきたこと。そして女性藩主の清心尼ゆかりの地でもあった遠野。そしてお話しを聞かせて下さったお母さん。ここ遠野には女性の強さの系譜が流れているのかもしれない。おそらくそれは遠野だけに限ったことではないだろう。ひとりの人間として生きて行くことにおいて、女性も男性も強くあらねばならなかったむかしと、強くあらねばならないこの先の未来。

日本のふるさとと呼ばれる遠野には、明日への手がかりが秘められている。(遠野1)