このところ、岩手県の内陸部の人たちと話をする機会が多いせいか、内陸部と沿岸部という軸で考えさせられることがしばしばある。
たとえば岩手県の場合、東日本大震災で沿岸部はいまなお癒せぬ甚大な被害を受けているが、盛岡市や花巻市、北上市、世界遺産がある平泉町や一関市は直接的被害は大きくはなかった。もちろん震災当初、内陸部の諸都市は沿岸部を支援する拠点として大きな役割を果たしたことはよく知られている。
しかし、震災から6年を経ようとするいま、内陸と沿岸の意識の違いを指摘する声は少なくない。ここに来て増えてきたようにすら感じられる。
たとえば、大船渡の恋し浜(小石浜)で、被災した地元漁業者とビジターの交流を進めるダイバーの佐藤寛志さん(通称クマさん)は、彼自身内陸部の花巻市石鳥谷の出身だが、「沿岸と内陸をつなぐ存在に」との思いで、沿岸部大船渡市三陸町綾里漁協のアンテナショップ「りょうり丸」を花巻市にオープンさせた。しかしオープン後の印象は「沿岸部と内陸部では、意識の差が想像以上に大きい」とのこと。「花巻は、自分の古里でもあるが、完全に“アウェー”」(以上、鉤括弧の部分は岩手県沿岸南部の地域紙である東海新報2017年1月24日号のトップインタビューから一部抜粋して引用)
先日、内陸部の中心都市で半世紀近くも子どもたちの学習支援を行ってきて、震災後には沿岸部でも活動を続けてきた団体の方と会食する機会があったのだが、老舗支援団体から出席した女性は震災の悲惨さを経験していない内陸部の子どもたちと、震災の当事者となった沿岸部の子どもたちの「こころのあり様の違い」を繰り返し話していた。「子どもたちと直に接するのが私たちの活動なのですが、出会った瞬間に、あっと思うくらいに違うのです」と。
この話には少し面食らった。しかし、同席していた沿岸部で震災後ずっと活動してきた人たちが涙目になってうなづいているのを見て、自分が感じ取ってきた印象を修正する必要があるのかもしれないと思った。(面食らってしまった理由は別のページで描くことになるだろう)
「震災直後、行方不明となった家族の捜索や生活再建に大人たちが忙殺されていた間、子どもたちはほとんど置き去りにされていた」
「少し落ち着いた頃、子どもたちは親や大人たちの顔色を伺うようになっていた」
「さらに時間が経過して、あれは震災から3年目くらいでしょうか、子どもたちのためのイベントに出かけていくと、ボランティアのお兄さんやお姉さんたちの膝を子どもたちまるで取り合いするようにしていたのです。大人たち、つまりお母さんやお父さんたちは生活を立て直すことに懸命に働いています。どうしても子どもたちへのケアが薄くなっていたのかもしれません」
「そしていまでも、わたしも時々は沿岸部での活動に参加させていただいているのですが、子どもたちの眼差しを見ると、内陸部、震災の影響を直接的に受けていない家庭の子どもたちとは明らかに違っているように感じずにはいられないのです」
冒頭の写真は1週間くらい前に盛岡の岩手県庁前で撮影した「ラグビーワールドカップ」の開催日カウントダウンの電光表示。このサイン掲示は県内メディアでは大々的に報道された。まるで県を上げてワールドカップ開催に向けて盛り上がっているくらいな印象だった。しかし開催地である釜石市では、駅の壁面にJR東日本の名で横断幕が掲げられているくらい。市庁舎にすらラグビーワールドカップの垂れ幕はなかった。(このことは以前にもお伝えした)
市の職員の話では、普及活動は現在も行っているし、今後はさらに加速させていく方針ということだったが、こんなところにも「内陸と沿岸」の意識差がある。そう感じるのはわたしだけではないだろう。
「未災地」という言葉
そして、このお話しで伝えたいこと。それは、誰にだって辛くて耐えられないような経験がある。涙を知らない人などいないはずなのに、時として、他人の辛い経験については忘れがちになってしまうということだ。
内陸とか沿岸部とかいう区分はまったく意味をもたないのかもしれない。宮城県なら「首都」仙台は被災地でもあるが、ここ数年の仙台は震災以前に比べても栄えているような印象を受ける。福島県でいうなら、むしろ重たい現実を背負っているのは内陸部と言うこともできるかもしれない。
昨年の年末、石巻市門脇にある「がんばろう!石巻」看板を建てた黒澤健一さんに久しぶりに出会い、彼から「未災地」という言葉を教えられた。(この言葉自体は高知を中心に提唱されたものらしい)
いまだ被害にあっていない土地、そして、将来必ず被災地となる土地。そんな意味が込められた「未災地」とは、つまり日本全体、あるいは世界中そうだということだ。
以前にもこのページで少し触れた児童文学の傑作「飛ぶ教室」には、こんな言葉がある。
人形がこわれて泣いたとか、もっと大きくなって、友だちをなくしてかなしんだとか、理由はどっちだってかまわない。なぜかなしんだかということでなく、どれだけかなしんだかが人生ではたいせつだ。子どもの涙がおとなの涙より小さいなんてことはけっしてないし、ずっと重いことだってある。
引用元:エーリッヒ・ケストナー「飛ぶ教室」若松宣子訳 偕成社 2005年 p.18
ここでケストナーの作品を引用したのは、震災の辛い経験を矮小化しようというのではないことを分かってほしい。誰にだって大きなかなしみの経験はある。それは子どもだからとか大人だからといって区別できるものではない。もちろん、沿岸部と内陸部だからといって分けられるようなものではないのではないか。
かなしみや辛さを知っているからこそ、そしてその上で、今日もわたしたちは生きているからこそ、ひとの辛さをわかりたいと思う。他人事なんてことで済ませない気持ちになる。未災地という言葉が訴えているように、自分のことだとしてとらえることができる。そういうことなのではないか。
内陸と沿岸という距離にしてわずか40、50キロの間でさえギャップが生じてしまうとことは確かにあるのだろう。だからこそ、私たちは忘れてはならないのだと思う。