息子へ。東北からの手紙(2016年6月10日)吉浜のおじさんとの5分間

「お兄さん、どこから来たの?」岩手県大船渡市三陸町吉浜で碑文の写真を撮っていたら、軽トラックに乗ったおじさんから声を掛けられた。

静岡の伊豆と応えると、「伊豆かあ、なつかしいなあ。昔からの友達が伊東に住んでてな、何回か行ったことがあるよ。百メートルくらい走るたんびに料金所でお金取られるような道路があったっけな」

伊豆の山並みを縫って走る観光道路の話だった。たしかに、料金所だらけの区間もありますね、なんて話をしていたら、軽トラの荷台に漁業のカゴが積まれているのが目に入ったので、「お父さん、漁の帰りですか」と聞いてみた。

聞いてみたら、おじさんの顔つきが少し変わった感じがした。

「いや、いまはほとんど農民だよ。半農半漁ってやつだ。海だけでは喰っていけないからな」

少し、怒っているうようにも見えた。

3年前に来た時には、まだ平地にはブルドーザーが入って、農地の復旧をやってる最中でしたけど、今はもう青々としたイネも植えられて。やはり、村全体で高台移転したことが…

「いやいや、俺たちは明治の頃に親たちに死なれているからな。たくさん辛い思いをしてきてんだ」

おじさんの語気に押されてしまっただけじゃない。明治の頃の先祖を「親」と呼ぶ感覚が、受け継がれる津波の被害とか、それだけ厳しかった津波被害からの再建を物語っているように思えて、返す言葉が見つからない。

「いま、あちこちで防潮堤だ、かさ上げだってやってるだろう。もったいない話だと思うぞ。見てろよ、またきっと繰り返すんだからな」

柔和だった最初の印象がかき消されていた。

それでも——、陸前高田では明治の津波でも昭和の時も、町にはほとんど津波が来なかったらしいんです。それが今回いきなり14メートル以上の津波が来たから、備えようもなかったのだそうです、などど聞いた話をしたところ、おじさんは少し考えてから、

「でも、やっぱりあれは、もったいない。無駄なことだと俺は思うんだ」

そう言うと、おじさんは「じゃあな」と軽トラで走り去っていった。にこやかな会話も含めて5分足らずのおしゃべりだった。

「奇跡の集落」の碑のすぐ近く、石川啄木の歌碑におじさんの軽トラが映っていた

後日、大船渡で友人にその話をしたらこんな言葉が返って来た。

「人的被害が少なかったということで、まるで被害はなかった、吉浜は被災地ではない、くらいに思われることがあるからなあ。吉浜だけじゃないよ。大船渡でも陸前高田でも、家族や親戚に犠牲者が出ていない人は、申し訳ないと、かえって辛い思いをしていたりすることがよくある。苦しいのは、生き残った人たち。そういう意味では、生きている人たちみんなが苦しいんだと思うのだけれど」

亡くなった人が少なかった、住宅の被災がわずかだったと言っても、漁場を破壊され、船を失い、漁具を失い、田んぼを失い、生活の糧を失ってしまった。明日からどう生きていけばいいのか分からない状況だった。しかし、家族を失った人たちに比べれば自分たちは恵まれていると思うほかなかった。

そんな吉浜の人たちに対して、「奇跡の集落」という言葉が贈られる。

ありがたい言葉かもしれない。しかし、どうかした拍子に、「死ななくてよかったね」「あなたは被災者じゃないんだよ」という無神経な物言いのように聞こえる時がないと言えるだろうか。

あるいは考え過ぎかもしれない。しかし、自然の地形を変えてしまうような大規模な工事を計画するのも、「奇跡の集落」という言葉をプレゼントするのも、被災地の外側にいる人たちに他ならない。

大船渡で友人は言った。そういうことが伝えられていないんだよね。それを伝えていくのがあなたの仕事なのかもしれないよ。