【遺構と記憶】原爆を投下されなかった町

その町には20世紀の終わり頃まで、戦前の軍需工場が残っていた。私が通った小学校はそのすぐ隣にあり、小学校に面する北よりの地域はちょうど小学生だった1970年代初頭に解体工事が進められ、跡地には公園や行政機関の建物が建設されたが、より南側の地域は80年代まで残されていた。

小学校の校区にあった戦争の遺構

北九州市小倉北区大手町付近(1980年頃撮影)

軍需工場の名前は小倉陸軍造兵廠。東西735m、南北1325mの広大な敷地で、ライフルや機関銃、大砲、戦車などの兵器の製造と開発が行われていた。小倉工廠はもともとは東京の砲兵工廠の支廠だったが、関東大震災後、東京砲兵工廠の機能の多くが移転し、小倉は巨大な軍需産業都市となった。

軍需工場の中にあった機械類はとっくに撤去されていたが、残された建物は民間に払い下げられていたようで、いまや産業用ロボットの世界的企業である安川電機の工場は、古めかしい小倉陸軍造兵廠の建物の中にあった。

平屋根の工場建屋に2階を増設して従業員宿舎にしたタクシー会社やトラック会社のモータープールとして利用されていた建物もあった。そこには同級生も何人か住んでいた。

しかし、たとえ同級生の住まいがあっても、造兵廠跡地の奥地に足を踏み込むことはあまりなかった。おとなたちに禁止されるまでもなく、廃墟と化した工場周辺で遊ぼうという気にはならなかった。そこは夏の晴れた日でも、埃っぽくて湿った陰惨な空気が満ちていたから。

北九州市小倉北区大手町付近(1980年頃撮影)

どうして軍需工場は残ったのか

戦後、小倉市は近隣の4市と合併し北九州市となったが、合併した門司は海外航路を結ぶ港湾都市、八幡や戸畑は官営八幡製鉄所を中心とする鉄都、そして若松は筑豊炭坑で産出する石炭の集積地として栄えてきた。北九州市を構成することになる5つの市はいずれも、戦争遂行を支える軍需産業都市だった。

B-29による日本空襲は1944年(昭和19年)6月に行われているが、中国成都から飛び立ったB-29が最初の標的にしたのは、八幡の製鉄所だった。北九州地域は連合軍(おもに米軍)の戦略爆撃の重要な標的だったのだ。

しかしその後しばらく、北九州エリアでは大規模な爆撃は実施されていない。その理由は、小倉が原爆投下目標として選ばれたからだ。事前に爆撃が行われていると、原爆の威力を正確に測定する上で支障が出るという理由からだとされる。

米国のトルーマン大統領が日本への原爆投下にサインする以前から、原爆投下の標的選定作業が続けられていた。当初の標的には、東京や横浜、名古屋、大阪、京都、八幡などが含まれていたが、すでに大規模な空襲が実施された都市が除外された上で、候補都市はいったん拡大され、そして絞り込まれていった。

絞り込まれた都市は、京都、広島、小倉、新潟、長崎。そのうち京都は文化財が多くあることから除外され、広島、小倉、新潟、長崎の4都市が最終的な投下目標に定められた。

8月6日、広島に最初の原爆が投下された。

二回目の原爆投下が行われた8月9日、第一目標とされたのは小倉だった。しかし、プルトニウム型原爆ファットマンを搭載したB-29「ボックスカー」は、小倉への原爆投下を断念する。

原爆投下はレーダー照準ではなく、目視によらなければならないと厳しく定められていた。これも原爆の威力の効果判定のためだ。当日の小倉上空は雲量こそ少ないものの、市全域にもやのようなものが立ちこめていた。

もやの原因は、小倉の隣の八幡に対して、前日8月8日に町を壊滅させるほど大規模な爆撃が行われたためだった。火災によって発生した煙が西風に乗り、小倉上空を覆っていたのだ。

結果として、小倉に落とされる予定だった原爆は長崎に投下された。

原爆が投下されていれば壊滅していたであろう小倉の中心部は、原爆投下から1週間も経ない終戦により爆撃を免れた。そして小倉陸軍造兵廠は破壊されることはなかった。それが造兵廠の廃墟が戦後30年以上も残された理由だ。

小学生の記憶

小倉陸軍造兵廠は地元では「造兵廠」あるいは「小倉工廠」と呼ばれていた。戦後から20年以上後に生まれた私の世代でも、「ゾーヘーショー」や「コクラコーショー」という言葉は、幼時の頃から普通名詞として認識されていた。

造兵廠に隣接していた小学校の子供たちの生活ぶりを思い出して記すことは、それほど無意味なことではあるまい。

図工の授業、野外スケッチの題材は、ゾーヘーショーを解体する建設機械だった。巨大なクレーン状の腕の先からワイヤーで吊るされた大きな鉄球が、ドーン、ドーンとゾーヘーショーの建物の壁にぶつけられる。図工の授業ではその様子を何度も描いたものだった。

当時、子供心に思っていたのは、あんな大きな鉄球をぶつけるのに、建物の壁がなかなか壊れないということ。図体はでかいし、鉄球そのものも物々しいのだが、案外弱っちい機械なんだなあと友達と語り合っていた。

いま思えば、ゾーヘーショーの建物はそれだけ頑丈に造られていたということなのだろう。鉄球をなんどぶつけても、なかなか建物は壊れない。そんなもんだから、学校そばのゾーヘーショーの建物の解体工事が始まって2年ほどは、ドーン、ドーンという大音響の中での授業だった。解体現場に面している南側の窓は開けてはならないことになっていた。ゴミ焼却場は解体現場に面した南側だったが、ゴミを捨てに行く時は、東側から大きく迂回して行くように指示されていた。

記憶をたどって思い出すのは札幌冬季オリンピック。騒音で授業にならないという事情があったのかどうかは分からないが、オリンピック開催中は授業の代わりにずっとオリンピック中継を教室で見ていた。札幌オリンピックは1972年だから、私は小学2年生か3年生。スキージャンプの日の丸飛行隊の快挙はもとより、アルペンスキーの回転、大回転、ノルディックスキーの長距離で眉毛や鼻毛、鼻水まで凍らせて走り続けるヨーロッパの選手たち、そしてボブスレーやリュージュ、もちろんバイアスロンなどなど、ばっちりガッチリ、その勇姿を教室のテレビで見続けた。

外では鉄球がゾーヘーショーを壊す音が地鳴りとともに響いていた。でもオリンピック中継だもの、小学生にとっては音声はあまり関係ない。ただ振動で画像まで乱されたりすると、授業中であるにも関わらず、教室の中からゾーヘーショーへの怨嗟の声がわき上がっていた。

そして下校前の掃除の時間ともなると、クラスみんなでその日見た競技の真似っこするのが日課だった。

ゾーヘーショーの解体工事が始まった1970年代当時、隣接する小学生の生活はそんな感じだった。

遺構はすぐ近くにある

子供の頃に目にする町の風景は、それがあって当たり前のもの。造兵廠の跡地など、きっと日本中にあるありふれたものだと思っていた。しかし、巨大な廃墟が残された理由を考えると、これほど大規模な戦争遺構は他所にはほとんどなかったのではないかと、今では思う。高校生の頃、数枚の写真に収めていてよかったと思う。その反面、もっと詳しく探索しておけばという後悔もある。

「排尿厳禁」横のシミは撮影者が水をこぼして作った演出。よけいなことをしなければよかったと悔やまれる。北九州市小倉北区大手町付近(1980年頃撮影)

造兵廠の跡地で長く残されていた南側のエリアも、80年代から90年代にはほとんど片付けられて、いまではホールや公営住宅が立ち並ぶ。それでも、新しくなったその地域に足を踏み入れると、昔を知る私の目にはガラスの割れた廃工場の列が見えるような気がしてくる。

この感覚はたぶん、阪神淡路大震災の後、再開発ビルが建ち並んだ新長田の町にかつて住んでいた人たちが訪れたときに感じるものに近いものがあると思う。

見知らぬ町に来てしまったような感覚。それでも、かつて見慣れた光景を探してしまう感覚。

戦後71年。戦争の記憶の多くは失われたように見える。日本とアメリカが戦争をしたなんてウソでしょ、という若い世代もいると聞く。しかし、たしかに戦争があったのだという遺構と記憶はいまでも各地に残されている。

戦争や大災害だけではない。かつての姿を知る町がその姿を一変させてしまうのを目の当たりにする経験は、日本中ありとあらゆる場所で引き起こされている。そこに、過去の記憶にすっと入り込む道が無数にあるように思われるのだ。ワープするみたいにするっと。入り込んだ過去の記憶の世界には、現在では見落としがちなさまざまな関わりがある。カサブタやササクレをつい剥がしたくなるのと似てはいてももっと深いところにつながっていく不思議な空間。それを見つけ出せないほどには人間は劣化していないと思う。

爆撃を受けていれば、とっくに建てかえられていたであろう古い神社。老朽化で傾き心張り棒で支えられていた。北九州市小倉北区馬借町付近(1980年頃撮影)

小倉の造兵廠の遺構は失われてしまったが、たとえば静岡県沼津市の海岸線には、国道沿いにいくつもの洞窟が見られる。それはアメリカ軍の本土上陸に対抗するための、爆弾を搭載したモーターボートや小型潜水艇など特攻兵機の基地として造られた洞窟だ。伊豆の山中には地下軍需工場として建設された巨大なトンネルも残されている。

ちょっと歩けば、いまでも全国のさまざまな場所に戦争の遺構は見いだせる。71年という時間は、記憶がかき消されてしまうほど遠いものではない。いま生きている私たちの人生の一部も、何らかのかたちで関わっていたりする。掘り起こせばそこに、71年前の記憶がよみがえる。

21年前、5年前の大震災の遺構だって同じだ。たとえ物が残されなかったからといって、忘れることを正当化することなんかできっこない。物が残されさえすれば記憶が伝えられるというものでもないだろう。問題は、私たちのこころの中にある。

たとえば原爆投下を免れたことで、戦争を知らない世代の私が、戦争の遺物を身近なものとして暮らしてきた記憶を、小倉陸軍造兵廠の遺構がなくなってしまった今、どのように伝えていくかが問われているのである。