【シリーズ・この人に聞く!第111回】プロレスラー 蝶野正洋さん

闘魂三銃士のひとりとして、日本のプロレス界を牽引し続け「黒のカリスマ」と呼ばれる蝶野正洋さん。現在は後進を育てる立場を務めながらメンズファッションブランドも確立。そして救命活動の啓蒙にも取り組まれています。幼少期のお話から、二児を育てる父の顔まで、強面な蝶野さんの素顔に迫りました。

蝶野 正洋(ちょうの まさひろ)

1963年9月17日生まれ。東京都三鷹市出身。
1984年、新日本プロレス入門。同年10月5日、越谷市民体育館における武藤敬司戦でデビュー。87年3月に海外遠征に出発。89年10月に帰国後、91年8月、第1回G1クライマックスに優勝し大躍進を遂げる。G1は前人未到のV5を達成し、92年8月には第75代NWAヘビー級王座を奪取。96年にはnWoジャパンを設立して一大ムーブメントを起こし、その後、TEAM2000を結成。2010年2月に新日本プロレスを離れてフリーとなったが、いまなお絶対的な存在感を放ち、黒のカリスマとして、プロレス界に君臨し続けている。現在はリング以外にも活動の幅を広げ、CM、TV、イベントに出演。2010年4月には自身初となるビジネス本『会社に負けない喧嘩の仕方』を執筆。現在は携帯サイト『ニッカン★バトル』では独自の視線で世間を斬るコラム、デイリースポーツ新聞社でサッカーコラムを持つなど、多方面で活躍している。1999年12月にはマルティーナ夫人と二人三脚のブランド「ARISTRIST(アリストトリスト)」を設立。デザインコンセプトはブラックを基調とし、「ストリート・フォーマル・ファッション」をキーワードにアパレル以外にもサングラスから靴までトータルデザインを手掛けている。最近は救急救命啓発活動、AIDS予防啓発活動に力を入れている。2010年9月には東京消防庁から救急医療活動への協力が評価され、消防総監感謝状を受け取り受領。2011年度の春の少年非行防止ポスターに起用され、警視庁生活安全部からは少年の健康育成や非行防止への協力的な活動を評価され、感謝状の贈呈を受けている。

小学生時代から腕相撲全勝のヒーロー。

――蝶野さんに憧れる男性陣がとっても多いので、きょうは普段の姿からはわからない魅力をお聞かせ頂きます。プロフィール拝見しますとシアトル生まれとなっていますが、どんな幼少期をお過ごしでしたか?

製紙会社でサラリーマンをしていた親父の転勤でアメリカのシアトルで生まれました。上に6歳上の兄、4歳上の姉がいて、3人きょうだいの末っ子で甘えん坊。親の目もあまりうるさくなくて(笑)、自由に過ごしていました。2歳半の時に帰国して社宅のあった川崎に住みました。当時流行っていた幼児用の足こぎ車が大好きで、ずっと乗りまわしていたので、ついたあだ名は「豆ダンプ」。その後は渋谷区へ引っ越し。ここはエリート層が住む土地柄もあって教育熱心で、小3の頃からバスを乗り継ぎ、算数専門の塾に通うようになりました。小学校4年生から今度は一軒家ラッシュの三鷹市へ移転しました。

――高度経済成長期が背景の子ども時代ですね。算数専門塾、しかもバスを乗り継いで通う…というのもすごくレアなことだったのでは?

兄も姉も中学受験をして私立の中高一貫校へ通っていたので、俺も受験させるつもりで親の意向で通っていました。進学塾に入るための対策塾みたいなところで100人位の子どもが勉強して、成績順に座らされた寺小屋。今で言う公文のような勉強法で少し先のレベルを勉強するものだから、転校先では小学5年生の頃、算数で学年で1番を取ったりして一目置かれる存在に。塾に行かなくなったら成績が急降下しました(笑)。三鷹市では腕力の強さを問われて、たくさん腕相撲を挑まれたけれど全勝でした。

――体格も大きくて、腕力も強くて、頭も良い、、、となったらリーダー的な存在ですよね。塾以外の習い事は何かされていたのですか?

自分から喧嘩を仕掛けるのではなく、友達の喧嘩を助けに行くタイプでした。当時はスポーツができるのがヒーロー。幼稚園時代に初めて習い事に通ったのは水泳教室。小学校に上がってから剣道もやっていたかな。すごく嫌だったけど、親に勧められて仕方なく通いました。どちらも1年くらいは真面目にやっていた。あまり好きでなかったので長続きしなかったけどね。当時住んでいた渋谷区は、教育熱心な家庭が多く、子どもに習い事をさせるというのも割と盛んでした。

――地元の中学校へ進まれたのですか?

うちは兄と姉は中学受験をして私立中高一貫校へ通っていたので俺もそうしたんですが、私立中を落ちちゃったもので、地元の中学校へ進みました。家庭の中で初めて公立中学へ行くのが俺で、両親も地元の事情がよくわかっていなかったのだろうね。その頃、一番悪いと評判だった地元の公立中学へ通うことになって。タバコを吸ったり、他校へ殴りこみに行ったり…そういう不良が俺にとってはあまりカッコいいとは思えなかったし、サッカー部に入って球を蹴っていた。そうこうしているうちに中学2年になる頃、新設中学に分校されて、少し環境は変わりました。

スポーツで飯を食いたい。

――中学でも大柄な蝶野さんはきっと目立っていたことと思います。高校時代はどんなことに燃えていたんですか?

中学時代サッカー部で功績を修めていたので、体育推薦で某私立高校へ行く予定でした。行ける!と思っていたから推薦の私立1校しか受けなかったけど、落ちてしまった。それで都立高校の2次募集がある学校を探して、少し遠くまで通学することになり、多摩方面にある都立高へ進学。でも入学するころには俺のことが噂になっていて「喧嘩の強い蝶野ってやつが来るらしい」と。

1984年4月新日本プロレス入門当時。同期の武藤敬司、橋本真也と共に闘魂三銃士として活躍。

――クチコミで(笑)。当時悪かった…といっても、プロレス道を確立されたわけですが、どこかで切り替えがあったのですか?

当時過ごした三鷹市は、中学生なのに親の車に乗って登校する不良もいましたから。いかに大人の世界に近づけるか?で目立とうとしていたのでしょうね。学校はそういう環境でも、うちの家庭はごく普通。小6の頃、姉とテレビのチャンネル争いで喧嘩になって、すごい剣幕で姉に突き飛ばされたことがありました。家族の中で俺は一番弱くて、誰にも勝てない立場だ…というのをわからされた出来事です(笑)。

――家庭の中で一番可愛がってもらえた末っ子が、プロレスラーになろうと思ったきっかけは何だったのですか?

不真面目でしたから高校はすんなり卒業できないと思っていた。停学も4回喰らっていましたし、定期試験も受けずに過ぎていたから。ところが卒業できて、浪人中のこと。当時、金曜日夜8時にプロレス中継がテレビでやっていて。いつも仲間とその時間は外にいて家でテレビなんか観ることなかったのに、たまたま観たのがプロレス中継。「スポーツで飯を食いたい」と思っていたからプロレスに衝撃を受けて、俺が求めていたのはこれだ。チャレンジするなら18歳の今だ!と。

――大学進学を目指している立場で、プロレスの世界へ憧れを抱く蝶野少年はどんな戦略でその先の道を切り拓かれたのですか?

親にはもちろん内緒。大学へ行ってアメフト部に入るから…という理由で、体を大きくするために家でご飯1日4食位しっかり食べて、ジムへ通って体を鍛えて筋トレを始めました。結局、二年浪人。予備校へ行って勉強するフリをしながら少しずつ体づくり。大学入試もこなしつつ、新日本プロレスの入門試験にも臨みました。問題は親にどのタイミングでいえばいいのか…で(笑)。結局、たった一つうかった大学の合格通知と一緒に、「実は俺のやりたいことはプロレスだから入門させてほしい」と直談判しました。親父には反対されましたが、俺も譲らなかった。親にそこまで盾ついたのは初めてのことで、結局親父も「わかった。それなら条件がある。大学に籍を置くなら1年間だけプロレスもやっていい。ダメなら大学に戻れ」と。そういう約束のもと、入門許可書に親の署名をもらって晴れて入門しました。

好きなことは続けられる。

――とても真面目に目標を持って取り組まれていらしたんですね。プロレス道の確立までに、どんな厳しさがありましたか?

プロレスの新人は10名入門しても8名辞めます。育てるというより残るものだけ残す。そのために試されるのはリングでの試合ではなく、スクワット1000回!腹筋1000回!といったシゴキ。毎日毎日そんな練習で、誰か脱落して辞めない限り終わらないわけです。私語も交わせない生活で、唯一気持ちを吐露できるのはシャワーの時間。ある日「おれ、辞めるわ」と口火を切ったのがいて、すると待っていたかのように、「俺も、俺も」…と続く声が上がった。中学卒業したばかりの15歳は荷物をまとめて甲子園を目指すと言って故郷へ帰りました。

「黒のカリスマ」と呼ばれる由縁のファッションを纏う。

――厳しい世界ですが、そんな中で生き残るには何が必要でしたか?

俺は小さい頃から何事も長続きしないで飽きっぽかった。周りからもそう見られているとわかっていたので、それに対する反発もあった。先はまったく見えないけれどプロレスでそれを克服したいと思った。プロレス歴31年になりますが、体はあちこち傷だらけでボロボロ。それでも好きなことは続けるんだ!という気持ちがあったからこそです。

――今の子どもたちのワルさ、昔と比べて質が違うように感じます。蝶野さんは「本当の強さ」って何だとお感じになりますか?

質は、昔も今もさほど変わっていないと思う。そういう世界に入ったら実力のないものはゴミのように扱われる。リーダーはチームに入れるやつかどうかを見極める立場。ふさわしくなければ境界線を作る時もあるし、善悪の識別もする。率先して弱いものイジメするようなリーダーは、リーダーとは呼べない。俺らの頃はヒーローがいたけれど、今ってシンボル的なリーダーが不在なんじゃないかな。

――蝶野さんのご家庭での教育方針は?

とにかく好きなことをやるべき、ということ。誰かをいじめたりするのは絶対ダメ。いじめられている人を助ける人でありなさいと伝えています。体の大きい長男は今、小学2年生。サッカーと柔道を習っています。子どもの人間関係は最終的に自分自身で解決すべきことだけど、親はタイミングを見計らって子どもの話を聞いてあげたい。ドイツ人の家内は、俺の考えとはまた違うけれど(笑)。家内の通訳を兼ねて、学校行事にも必ず行きます。「あ!蝶野だ!」と子どもたちに声を掛けられますよ。

編集後記

――ありがとうございました!蝶野さんの意外な一面、二面…伺うことができ、とても幸せな取材でした。現在取り組まれている救急救命啓発活動では『スポーツは勝ち負けの競争だけでなく、思いやりも伝えていくもの。ケガをしている人がいたら立ち止まって助けてあげるべき』…という弁に共感しました。素顔は真面目で心やさしいアニキ。最後に握手してくださった大きくて暖かな手にはエネルギーが詰まっていました。リング外での今後の活動も、楽しみに応援しています!

取材・文/マザール あべみちこ

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