医師として患者と向き合う本業をはじめ、イラクの子どもたちへ医療支援を続ける活動や「あきらめない」「がんばらない」「なげださない」など多くの著書を執筆、講演など多方面でご活躍される鎌田實先生。そのエネルギーの源泉は、朝時間の有効活用と家族の時間。団塊の世代として競争の激しい時代で励まされてきたこと。日本の子どもたちへの思い...。じっくりお話を伺いました。
鎌田 實(かまた みのる)
1948年、東京生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。1988年、長野県諏訪中央病院院長に就任。一貫して住民とともにつくる医療を提案・実践。1991年、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)設立。ベラルーシ共和国の放射能汚染地帯の病院へ、18年間にわたり医師団を派遣し、約4億円の医薬品を支援してきた。諏訪中央病院名誉院長。東京医科歯科大学臨床教授。
日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)理事長。日本・イラク・メディカルネット(JIM-NET)代表。著書多数。
算数が得意な子と、厳格な父との葛藤
――先生は1948年生まれ。戦後間もない頃ですが、どんな子ども時代をお過ごしでしたか。
戦争に負け、皆が貧しかった時代。僕を産んでくれた両親は育てられずに、僕を手放しました。そのことを僕はずうっと後、大人になってから知った。
引き取ってくれたのが岩次郎さん夫婦。貧しくて自分たちの生活だけで精一杯だったはずなのに僕を育ててくれました。岩次郎さんは青森の出身で、小学校しか出ていない人でした。実家はいわゆる水飲み百姓で、小さなリンゴ畑しか持っていない。その家の八人兄弟の末っ子として育ち、若くして上京。彼は一生貧乏でしたが、運転免許を取得して、生計を立てた。最後は個人タクシーの運転手として70歳まで働いていました。
周りには優しい人でしたが、僕にはすごく怖い存在。何しろ一度もほめられた記憶がない。生活することで精一杯だったから、運動会で徒競争一等賞をとっても、褒めてくれない。僕は、いつも一生懸命に頑張っているつもりだけど、心と裏腹に頑張っている姿を見せたくない気持ちが強い子でした。それが、父には「力をぬいている」と見えたのでしょう。もっと早く走れるはずだ、と怒られましたね。
――厳格なお父上。今の時代、そういうピリッと緊張した父子関係が失われていますけれど、お父上から「勉強しなさい」と言われたことは?
父は郷土愛の強い人で、青森からの苦学生をしばらく面倒見ていた時期があります。上京してくる学生が大学生活に慣れるまで家に居候させた。その大学生たちが家庭教師代わりでした。面白がって、4歳くらいの僕に九九を教えてくれたので小学校へあがる前に九九が全部言えて、算数だけで生きてきた(笑)。どんなときでも算数は誰にも負けないという自信がありました。でもそのほかは……(笑)。小学校のIQ検査で「知能指数は高くない」といわれたことがあります。今たくさんの本を書きますが、国語の点数もよくなかったし、英語も国際医療支援でしょっちゅう海外に行くのに、いまだに仲間たちから馬鹿にされるくらいできない。でも、ひとつでも得意なものがあったことは、僕が生きていく上では幸運なことでしたね。それは、今思えば、父が郷土愛の強い人だったおかげで、僕に回ってきた運だったのかもしれない。
――たった一つでもその得意なことが自信になって、医師の道を志す基礎になられたわけですね。医学部を目指して毎朝猛勉強をされたとか……。
僕は見栄っ張りだから、ノーと言えない。友達に誘われたら遊びにいっちゃう。
「僕勉強があるから」なんて言えない。でも貧乏から抜け出すために勉強しなくちゃと思って、僕が始めたのは、朝四時半に起きることでした。朝なら誰にも誘われない。受験勉強のコツとして僕が言えることは、とにかく「繰り返す」こと。これと決めた一冊の参考書だけをひたすら繰り返してやる。同じ本でも10回でも繰り返せば、絶対にものになる。少なくとも、僕はそうやっそれを高校時代から始めて、61歳の今まで続けています。朝の時間に、詩を読んだり、音楽を聴いたり、いろんなことを学びましたよ。もちろん、大人になってから、医学や病院経営学のことを学んだのも朝。そうやって受験や国家試験を乗り越えてきた。朝起きることも、とにかく一度決めたら、それをひたすら繰り返す。僕が医者であり、病院の経営者ができたのは、なにごとも繰り返してきたから。シンプルだけど大事なことだと思います。
――すばらしい生活習慣ですね。そうやってご自身で活路を見出していくなかで、ご両親との関係はどうなっていったんですか。反抗したりすることはありませんでしたか?
いっぱいありました。でも小学生時代は、いい子だったかも。母は心臓病を患って入院していたので、反抗的な姿は見せちゃいけないと思っていました。母は父と違って僕にはとっても優しい人でした。バスに乗ると周りの人と仲良くなってしまうような人。いつも「みのるちゃんすごいね」と言ってくれました。
一方で父には、自分は嫌われているんじゃないかって悩んだ時期もありました。高校3年のとき、医学部へ行きたいって言ったら、父に「馬鹿なこというな!」と怒られて。「働いてくれればいい」との一点張りで、僕はその時とっさに父の首を絞めかかった。
今思えば、自分の思い通りにならないからカッとしたわけだけど、そのときに事件にならずに済んだのは、父が泣きだしたから。息子に首を絞められて、悔しかったと思います。しかも、僕がもらわれてきたことを当時はまだ秘密にしていたから、僕は本当の父だと思っていたし、父には言葉にならない複雑な思いがあったろうと。でも父は最後に「好きなように生きろ」と言ってくれた。そんなに行きたいなら行っていい。でも俺は何もしてあげられないよ、と。「自由に生きていい」と言われたことは、僕にとっては大きかったですね。
主人公の人生を歩ませることが、親の役割
――いろいろなご苦労がおありの人生で、複雑な思いを抱えた子ども時代を過ごされて。ご自身のご家庭では、何を大切にされましたか。
できるだけ子どもには自由をあげたいと。やっぱり人間にとって一番大切なことは自由。自由をあげられる親になりたいという思いは一番強いですね。自分は18歳のとき父から自由をもらった。それを、ちゃんと子どもたちに与えたいと思っていました。
でも結局、大した父親じゃなかった。娘からは「お父さん嫌い」と言われたこともあります。すごく大切にしてきたつもりが、言われてハッとしました。娘が生まれたころ、諏訪中央病院の再建も佳境に入っていて、仕事に夢中になっていた。忙しくて家族のことを考えているつもりでも、実際はそうではなかった。自分が家族のことで悩んできたからこそ、いい父親になろうと思っていたにも関わらず、そう言われて本当に反省しました。いい病院を作らなければという重圧から、48歳のときのパニック障害に。それがきっかけで、早く病院を辞めたいと周りに言うようになりました。もうひとつは、家族との時間を持ちたいと。やっぱり家族との時間をちゃんと作りなおしたい。その上で、国際医療支援をしたかった自分の原点に戻ろうと。
――仕事に追われる日々から、家族の大切さに気付かれたというのが、医師としての大きな転換期だったんですね。
結局、人間はひとりでは生きていけない。家族って血はつながっていたほうがいいのかもしれないけど、たとえ血はつながっていなくても、やっぱり家族のような関係が必要だと少しずつはっきりしてきた。でも、思いだけでは相手には通じない。どれだけ同じ時間を過ごしているかも大切なこと。人間はそれぞれが、まだら状にいい面も悪い面も持っていて、そういう完璧でない人間が同じ屋根の下に暮らしてこそ、おもしろかったり難しかったりする。人間は弱いから、弱い間少し支えてあげることは必要。一人ひとりの子どもが自分の人生の主人公で生きていくべきで、主人公として生きていけるようにすることが、家族の役割だと思います。今の家族関係はすごくいい。2009年ベストファーザー賞をもらいました。悪戦苦闘していいお父さんになりました。
たぶん、今度は間違ってないと思います(笑)。
――遠慮なく本音をぶつけ合えるのも家族で、傷つけ合ってもまた仲直り。親はいつまでたっても子どもが心配な存在ですよね。ところで最近「始めませんか『弁当の日』」(自然食通信社)という対談本を出されました。この取り組みに関わるようになったきっかけとは。
この取り組みを始めた、香川県の中学校校長の竹下和男さんから「お茶はペットボトルで飲むものだ」という子が出てきたと聞いて。お湯を沸かして、茶葉を急須に入れて、湯のみ茶碗に注ぐ……という茶の淹れ方を知らない子がいる。そういう家はもうご飯をつくらなくなりますよね。場合によっては包丁さえない家になる。そういう子はご飯が作れないからかわいそうだとか、不平等になる……という話もありましたが、竹下校長先生は「それを不平等で片付けてしまったら、その家は代々料理をしない、お茶を淹れない家になっていく。そのほうが不平等だ」と。そういう子がいる時代だからこそ、たとえお母さんが作れなくても、その子が大きくなったときにちゃんと料理が作れる家にしてあげるのが教育だと。
僕たちはもしかしたら、平等やかわいそうだという言葉で、逃げていることがあるんじゃないかなと思った。
――本を読まない子が増えているのと同じくらい、食についてはちゃんと考える家庭と、そうでない家庭が二分化されています。具体的には、子どもたちが自ら弁当づくりに励むという、すばらしい取り組みですよね。
「弁当の日」には、毎回「旬のものを使う」「冷蔵庫の残り物でつくる」などのテーマがあります。「大切な人に弁当をあげる日」というテーマのとき、ある小学校五年の女の子は3つのお弁当を作りました。ひとつは自分に、もうふたつはお父さんとおばあちゃんに。その子のお父さんは、月曜日から金曜日まで単身赴任していました。だから、月曜日の朝五時に起きて、お父さんが新幹線の中で食べられるようにお弁当を作ったんですね。お父さんは、新幹線を降りてすぐに、泣きながら「おいしかった」と電話かけてきたそうです。
もうひとつのお弁当は、入院中のおばあちゃんへ。病院へお弁当を届けたら、おばあちゃんがベッドの上で正座をして、こう言ったそうです。「自分は嫁いできてからたくさんの弁当を作ってきたけれど、人に作ってもらったのは初めてだ」って。
この話を聞いたとき、この活動をもっと日本中に知らせたいと思いました。
今、実践校は500校ほどに広がっています。朝の読書運動くらいに全国各地に広がればいいなと思っています。
チョコレートで叶う、イラクへの医療支援
――本業の傍ら国際医療支援や「弁当の日」プロジェクトという活動にも力を入れていらっしゃるんですね。国際医療支援は、現在どんな活動を。
イラクの4つの小児病院へ、五年間で合計二億四千万円分の薬をとどける活動を続けています。国際医療支援はずっとやりたかった仕事ですが、きっかけは日本政府が自衛隊をサマワに送ったこと。当時の政府は、これが人道支援なんだと言いました。
でも、僕はそうじゃないと思った。もちろん民主主義国家ですから、選挙で選ばれた人が国会で決めたことなら、それはそれでいい。でも、本当の人道支援って五千億円を使ってわずかな水を配ることじゃない。本当の人道支援って、子どもの命を救うことだと僕は思ったのです。