津波実話・悲話・奇譚。繰り返される物語

繰り返されるということは学んでいないということか

昭和の三陸大津波の経験が記された実話は、教訓を伝え、二度と同じようなことのないようにという思いで記されたものであるはずなのに、2011年の出来事と共通することばかりに思えるのは、伝えるべきものが伝えられていなかったということになるのだろうか。

伝えるべき教訓ということからは少し離れるが、大震災の現場ではいつの時代でも同じようなことが起きるようだ。

自己の罹災を省みぬ三警官

釜石警察署勤務岩手県巡査佐藤勇氏は、地震と知るや直ちに制服を着し、海岸通りへ出て漁夫らとともに見張りをしているうちに津浪が襲ってきたので、半鐘を鳴らして警告させ、自分は大声に「津浪だ、津浪だ」と叫んで町民を避難させた後帰宅したが、自宅はすでに津浪のために倒壊した上焼失し、家財等はほとんど丸焼となったが、さらに意に介すことなく、一般罹災者の救護に任じた。

岩手県巡査蒲生定喜(気仙郡広田村出身)、同山崎安造(上閉伊郡鵜住居村出身)両氏は震災のために非常招集を受け、蒲生巡査は宮古町の警備に、山崎巡査は釜石町の警備に服務中、郷里の家が流失し、家族は身を持って避難した旨軒より通知を受けたが、職責を重んずる両巡査は自家の遭難を顧みず献身職務に服し、町民の保護治安に任じた。

引用元:岩手県昭和震災誌 1173ページ

警察、消防、自衛隊、全国からの行政職員や医療関係者、海外からの援助隊……、多くの人が公のために身を捧げて働いた。子育て中の女性予備自衛官が応召することもあったという。自らの事情を顧みず献身的に働いた人は膨大な人数にのぼるだろう。

奥ゆかしい信心家

気仙郡唐丹村本郷部落は、102戸のうちわずか5戸を残しただけで、ほとんど全滅の悲運に見舞われたが、篤信家として所に聞こえていた新沼丈之助さんの家は不思議にも危難を免れた一軒である。

丈之助さんは津浪と知るやまず第一に、神体仏像を残らず笊に入れ後生大事に抱え込んで安全な場所へ遷した上、長男の政次郎君とともに、闇の中に救いを求める声をたよりに浜辺を捜し、乳飲み子を抱いた母親、孫連れのお婆さん、あるいは逆さに砂に埋まっていた子供など数人を救助した。

波が引いてから家はもう流されたものと諦めて帰ってみると、残礎も留めず無残に洗い去られた砂浜の中に自分の家だけがぽつつりと残っていた。村の人たちはこの奇跡ともいいうべき幸運を聞き伝えて「これは全く信心のお陰だ」と奥ゆかしい丈之助さんの人格をほめたたえている。

引用元:岩手県昭和震災誌 1183ページ

この話は神仏を大切にした人が家の罹災を免れたという話だが、2011年にも神社の前で津波が止まったとか、津波が神社を避けて流れたという話は多い。

荒波を潜って死体を捜る

呪わしき津浪の魔の手に奪われて、海底深く沈んでいる人々の死体を、一刻も早く創作して生き残った家族を慰めようとしても、器具器械が完備しておらず且つ逆巻く濁浪を恐れて、誰一人捜索に従うもののなかった時、九戸郡種市村の田子消防手は、勇敢にも自ら進んで潜水具を身にまとい、波荒き海中に潜って、二日間、死体の捜索に努力した。

引用元:岩手県昭和震災誌 1183ページ

今もボランティアで遺体捜索を続けているダイバーたちがいる。家族の行方を探すため、ダイビングのライセンスを取得して海に潜る人たちもいる。

夫婦顔見合わせて「まァ」

気仙郡唐丹村の太田一郎さんは、津浪の襲来と知るや火見櫓に駆け上がり、半鐘を鳴らして村民に危急を知らせているうち、どっと押し寄せてきた大波に火見櫓もろとも浚われてしまった。夢中で浮かび上がると、すぐ傍らに助けを求める女の悲鳴がする。無意識にその女を抱えるなり泳ぎ続けたが、荒浪の中とて水練達者の一郎さんもすっかり今期が尽き果ててて人事不省となり、いつの間にか岸辺に打ち揚げられていた。正気づいてお互いによく見ると、救うた人は自分の夫、救われた人は自分の妻である。二人はじっと顔を見合わせて「まァ」と伝ったきり、ぽろぽろ涙を流してその奇跡的な幸運を喜び合った。

引用元:岩手県昭和震災誌 1193ページ

浦島のよろこび

下閉伊郡山田町の阿部喜代治さん親子は、漁に出て大島付近に差し掛かった際、最初の地震に出会った。波があまり烈しく揺れるので引き返したが、干潮のため自分の桟橋に船を着けることができないので、飯岡漁業組合の埋立地に回漕中、波に追われ船もろとも押し流された。親子は運を天に委せ、手を束ねて漂流しているうち、喜代治さんは或る人家の屋根に掴まり、子は舟に残されたまま親子は離れ離れになってしまった。

家はあっちへこっちへ漂流した後、陸地に打ち揚げられた。屋根から這い下りて子の行方を探したが付近には見当たらない。もう溺死したものと諦めて帰ってみれば、家は流されて跡形もない。家族の名を呼び歩いても応えがない。浦島太郎のような気持ちで久しい間ぼんやり闇の中に佇んでいたが、夜が明けるとお互いに死んだと諦めていた親子家族の無事な顔が揃って、皆々その幸運を喜び合った。

引用元:岩手県昭和震災誌 1196ページ

避難所で繰り返された光景と同じだ。再会を喜び合い、涙を流しながらハグする人がいる一方で、抱き合う相手が見つからない人たちが同じ場所にいた。

どこかで生きていてくれると信じていた人たちが、やがて安置所をまわるようになる。車もなくガソリンも乏しい状況の中で、まわれる場所から順番に。

「岩手県昭和震災誌」は優れた資料には違いないが、残された遺族の感情をつぶさに伝える記事は見当たらない。それが時代というものなのか、あるいは戦争に突入していく時勢のこと、特別な意図が働いていたのかどうかはよく分からない。