1933(昭和8)年3月3日午前2時31分――。
その時刻、三陸一帯はうっすら小雪に覆われ、氷点下10度前後の厳しい寒さのなかで寝静まっていた。そこに突如として襲ってきた震度5の強震であった。
「人々は夢もなかばに驚いて起き出て、あるいは陰惨の空を仰いで、あるいは海を臨んで天災のなきかを懸念した。しかし、暫くして余震はおさまり、天地は再びもとのひっそりした夜にかえった。ようやく胸を安んじてまた温かな床に入り、まどろみかかろうとする時、海上はるかに洶湧(きょうゆう)した津波は、凄まじい黒波をあげわが三陸地方を襲った。
見よ! ほのぼのと明けはなたれてゆく暁の光の下に展開された光景を。船端を接して停泊せる大小一万の船舶は、今やその片影すらとどめていない。軒を連ねて朝に夕に漁歌に賑わいし村落は、ただ一望、涯なき荒涼の砂原である。亘長80里(314km)、長汀曲浦の眺め豊かな海浜には哀れ幸いなくして死せる人々の骸が累々として横たわり、六親を奪われ、家なく、食なき人々の悲しい号哭の声に満ちた」
(岩手県昭和震災誌)
引用元:山下文男「津波てんでんこ 近代日本の津波史」
津波防災研究家で東日本大震災を経験した後に亡くなった山下文男さんの労作「津波てんでんこ」から、昭和三陸津波の記事の一部を引用した。岩手県昭和震災誌の記載は、昭和8年の桃の節句の日に三陸海岸を襲った悲劇の惨状を、時代を越えて今に伝える。
(上の写真は岩手県昭和震災誌より引用)
田老村の悲劇
三陸地方はこの大津波から遡ること37年前、明治の三陸津波に襲われている。たとえば下閉伊郡の田老村(現・宮古市)では1,600人以上いた住民のうち生き延びたのはわずかに183人、それもほとんどが漁で海に出ていた漁師たちと、山の畑にいた人たちで、村はまさに壊滅状態だったという。
ほとんど全滅と言うに等しい被害だったが、昭和の大津波の頃、田老村の人口は5,000人近くまで回復していたという。つまり、明治三陸津波の被害を受けた後、多くの人々が田老村に移り住んだということだ。豊かな海と山に挟まれたこの地域が、いかに魅力的な土地だったかを物語るものでもある。
しかし、田老村は昭和の大津波でも972人に上る死亡者を出してしまう。
山下文男さんは指摘する。明治の津波に比べて昭和の津波の高さは、土地によって違いはあるものの約75%。被災した家屋の数もほぼ75%。ところが死者数では明治の津波の死亡者数の13.7%に抑えられている。この「不幸中の幸い」の一因として明治の津波の体験と教訓が生かされたことがあったのだろうと。
明治の大津波から既に37年も経って風化しかけてはいたが、それでも、ほとんどの家に、一夜にして家財を烏有に帰し、先祖の命を奪った津波の恐怖についての哀しい「津波物語」があって、親子の間で語り合わされることが少なくなかった。何しろ、岩手県では728戸も全滅して、一戸平均3人も死んでいるし、筆者の地域などでは一戸平均5.6人も死んでいたのである。
その体験者や津波の恐ろしさを聞き知っている賢い大人たちが、地震の後、氷点下4度から10度という厳寒の明け方にもかかわらず、自ら海岸に下がって海の様子を監視していた。そして、異常な引き潮を見ると同時に、大声を上げたり、半鐘を叩いたりして集落に危急を告げて住民たちの避難を促した。この危急を告げる叫びや半鐘の早鐘で、どれだけ多くの命が救われたか数知れない。
引用元:山下文男「津波てんでんこ 近代日本の津波史」
前の大津波の経験が伝えられていたからこそ、津波の規模が大きかったのに比して、人的被害を抑えることができたのだろうというのだ。
ところが田老村の場合、明治の津波でほとんど全滅状態。昭和の頃の住人はほとんどが外から移り住んだ人たちだったので、明治の大津波の教訓を活かそうにも、そのすべがなかったということなのかもしれない。
豊かな村だからこそ多くの人が移り住んだ。その結果、37年後の津波でも大きな人的被害を出すことになってしまった。この悲劇が田老に巨大な防浪堤が建設される直接の動機になったのは間違いないだろう。
大津波当時の資料より
昭和三陸津波に関する写真資料を「岩手県昭和震災誌」と中央気象台の「三陸沖強震及津浪報告」から引用して紹介する。
昭和の津波を免れた小学校は、田老第一小学校として同じ場所にたっている。東日本大震災の大津波では、保護者が引き取った児童1名が亡くなったという。
島越は東日本大震災でも三陸鉄道沿線から海沿いが大きな被害を受けた。
日本赤十字社(日赤)が創立されたのは1877(明治10年)、西南戦争でのこと。敵味方の区別なく負傷者を救護する活動から発足した。1888(明治21)年の磐梯山噴火では世界初めて戦時ではない平時救護を行っている。