広島平和記念資料館の順路を歩く人たちの足が止まる場所。一瞬、そこにひとりの少年が佇んでいるように見えるのです。彼の体は竹でできていて、遺品である衣服を支えるための竹の骨格が、彼の本当の体の骨のように思えてきます。
中学生の遺品
爆心地から900メートル 小網町
市立中学校1・2年生は、小網町の建物疎開作業現場で被爆し、多くの犠牲者を出しました。この衣服は、死亡した3人の生徒が身につけていたものです。
引用元:平和記念資料館のキャプション
重ねて、広島平和記念資料館のホームページの解説を引用します。
平和記念資料館では、亡くなった3人の生徒が身につけていた衣服を一体にして展示しています。帽子は1年生の津田栄一さん(当時13歳)、学生服は2年生の福岡肇さん(当時14歳)、ゲートルは、1年生の上田正之さん(当時12歳)のものです。
津田栄一くんの帽子とベルト
1年生の津田栄一くん(当時13歳)のお父さんが栄一くんを見つけたのは、建物疎開の現場に近い天満町の道路の上でした。そのとき、すでに栄一くんの命はありませんでした。地下足袋を片方ぬいで、あおむけに倒れており、ノドと胸に大きな穴があいて肋骨がのぞいていました。
福岡肇くんの学生服
2年生の福岡肇くん(当時14歳)の被爆後のゆくえはわかりません。
家族がさがし回りましたが、みつかりませんでした。
11日になって「江波の国民学校に収容されているから迎えにきてほしい」という伝言が、家族がいない間に届き、すぐに近所の人がリアカーを引いて迎えに行きましたが、間に合わず、その日の朝、亡くなり火葬にしているということでした。
その後、4カ所から「遺骨を引き渡す」という通知があり、そのたびにお母さんは誰のものかわからない遺骨をもらってきましたが、肇くんのようすはとうとうわかりませんでした。
ただ、同級生の父親が作業現場で見つけてとどけてくれた学生服には、左胸の名札の名前が読みとれ、これだけが確実な肇くんの遺品となりました。
上田正之くんのゲートル
1年生の上田正之くん(当時12歳)は、大火傷を負って福島町まで逃れたところを近所の人に助けられました。
しかし、お母さんのキヨさんも被爆して動けなくなり、救護所を転々としていたため会うことができず、正之くんは助けてくれた人の家で「お母さん、お母さん」と泣いてばかりいました。そして、8月8日の午後4時ごろ亡くなりました。
ゲートルとは活動時にズボンの裾が絡まらないように包帯状の布を脛に巻きつけたもので、戦争中には軍隊のみならず民間人の男性も着用することが多かった巻きゲートルのことです。上田さんの遺品は、これ以外にも学生ズボンが資料館に寄贈されているそうです。
広島平和記念資料館のホームページには、津田栄一さん、福岡肇さん、上田正之さんの写真も掲載されています。中学生とはいえ、まだあどけなさが溢れる少年たちです。ホームページに掲載された3人の写真を引用させていただきます。
小さな彼らの声が聞こえますか?
広島平和記念資料館のホームページには、3人の遺品を後ろから撮影した写真が掲載されています。熱線で焼かれてボロボロになった衣服が、それらを身に着けていた少年たちの痛みを現実の感覚として伝えてくれます。
平和記念資料館に並ぶ遺品の数々は、それぞれが無言の声を語りかけてくれるものですが、この3人の中学生の遺品が突きつけてくるものには異質な力を感じます。
本来なら、3人の衣服が竹製の同じマネキンに着せられることなどありえないことでしょう。しかし、それがこの場所にあり、しかもあたかも1人の少年であるかのように私たちに語りかけてくる。ここに戦争の不条理が結晶しているように感じるのです。
「安らかに眠って下さい。過ちは 繰返しませぬから」
3人の中学生が正面に見つめる場所に刻まれた言葉が、平和記念資料館の分厚い壁の向こうから確かに聞こえてきます。
「安らかに眠って下さい。過ちは 繰返しませぬから」
声に出して言っていただけませんか