平和記念資料館の順路の中ほどに、たくさんの人の注目を集める遺品が展示されています。近くからはすすり泣きの声も聞こえてきます。
三輪車、鉄かぶと
銕谷信男氏寄贈
爆心地から1,500m 東日本大震災白島町
銕谷伸一(てつたにしんいち)ちゃん(当時3歳11か月)は、三輪車乗りが大好きでした。あの日の朝も、自宅の前で遊んでいました。その時です。ピカッと光り、伸一ちゃんと三輪車は焼かれてしまい、伸一ちゃんはその夜死亡しました。お父さんはたった3歳の子を一人お墓にいれても、さびしがるだろうと思いました。そこで、死んでからも遊べるようにと伸一ちゃんの亡骸とこの三輪車を一緒に自宅の裏庭に埋めたのです。
それから40年が過ぎた1985年(昭和60年)の夏、お父さんは、伸一ちゃんの遺骨を庭から掘り出して、お墓に納めました。
伸一ちゃんとともに庭で眠っていたこの三輪車と鉄かぶとは、平和記念資料館に寄贈されました。
引用元:平和記念資料館のキャプション
原子爆弾を投下した爆撃機の搭乗員たちは、自分たちが落とした爆弾がこのようなことを引き起こすと予想していたでしょうか。
原子爆弾を開発した科学者や技術者たちは、自分たちがつくった爆弾によってこのような悲しいことが引き起こされると想像していたのでしょうか。
原子爆弾投下を命令したトルーマン大統領は、自らの命令の結果どんな悲惨な状況が生み出されるのか、理解していたのでしょうか。
中国、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、カナダなど、世界中の国々と戦争を始めた日本の人たち(軍部も政治家も役人も軍需産業の経営者も新聞記者も我々一般の日本人も)は、戦争の末に直面することになる現実について考えたことがあったのでしょうか。
銕谷信男さんは、たった3歳の子を一人お墓にいれてはさみしがるだろうと、伸一ちゃんの亡骸といっしょに大好きだった三輪車を埋めました。それから40年もの間、伸一ちゃんは信男さんの家の裏庭に眠り続けたのです。
信男さんは伸一ちゃんと離れたくなかったのでしょう。長い年月、毎日を同じ家の敷地の中で過ごした末に、ようやく40年後になってお墓に納めることにされたのです。おそらく、ご自身に何かあった時、伸一ちゃんと離れ離れになることを案じられて。
日本は先の戦争の後70年以上戦争をすることなく、平和を謳歌してきたと認識されていますが、無批判にそう信じてしまうのは間違いかもしれません。1945年を境に年表をハサミでチョキチョキ切るようにはいかないのですから。
伸一ちゃんの年表は戦争の歴史の中で止まったまま、伸一ちゃんは40年を裏庭で過ごし続けました。信男さんの年表は戦争の歴史の上に戦後という歴史が堆積していっただけで、戦争の時間が消え去ることはなかったのです。
戦争は終戦によっても終わったわけではないのです。戦争の記憶は風化などすることなく続くのです。信男さんの中に伸一ちゃんが生きつづけたように。
私たちもまた、伸一ちゃんの三輪車、そして信男さんを知ることで戦争の記憶を継承しました。決して風化することのない記憶を。
戦争は終わっていません。