女川町地域医療センター(町立病院)への坂道の中腹につくられた歩道を歩く。目の前に青い海とかさ上げ造成が進む町が広がっていく。造成が進められている場所はかつて女川の町の中心部だった。港の近くにはマリンパル(町営の観光物産館)や商店、そして七十七銀行女川支店があった。
2011年3月11日、七十七銀行女川支店では13人の職員のうち12人の命が奪われた。すぐ近くに避難できる高台があるのに、支店長の指示で屋上に避難したのが原因とされている。銀行があった場所には、遺族の手で慰霊の花壇がつくられていたが、今ではもうその場所はかさ上げ工事で埋もれてしまった。
2015年3月、女川町地域医療センターの坂道の中腹に新しく慰霊の場「鎮魂の花壇」が設けられた。女川町のスーパーマーケットおんまえ屋の慰霊碑も建てられている。
慰霊碑に刻まれた言葉をその場所で読む。刻まれた1つひとつの言葉は遺族たちが選び取ったものだ。どんな思いで、この言葉を選び、この場所に刻み込んだのだろうか。
命を守るには高台へ行かねばならぬ
2011年3月11日七十七銀行女川支店行員13人は2階建て支店屋上に逃げました
約三〇分後津波は屋上まで到達し12人が犠牲になり8人が行方不明のままです
走れば一分で行けた高台堀切山があったのに
なぜ目の前の高台ではなく屋上への避難指示が出されたのでしょうか
津波避難は高台へ行くことが大原則
銀行には一言「山へ逃げろ」と言ってほしかった
どんなに怖かっただろう
どんなに悔しかっただろう
どんなに悲しかっただろう
どんなに無念だっただろう
東日本大震災を教訓に職場の「命」守れ
2015年3月11日
七十七銀行女川支店行員家族
引用元:七十七銀行女川支店行員慰霊碑の言葉
愛する子供たち、兄弟姉妹、家族を奪われた人たちが選ばねばならなかった「教訓」という言葉に心が痛む。
鎮魂の花壇は、避難していれば助かっただろう堀切山の高台ではなく、あの日津波で多くの人々の命が奪われた女川町地域医療センターの、それも中腹に建てられている。
鎮魂の花壇からは、かつての女川の町の中心部が見渡せる。七十七銀行女川支店があった場所が見下ろせる。その向こうには青い青い女川の海が広がっている。