原爆ドームの鉄柵の中、みどりの芝生に黒猫がいます。黒猫は不吉という連想もあるかもしれませんが、この猫は端正で、とてもお行儀がいいのです。姿勢を正すようにしずかに芝生の上に座ると、くるりと尻尾を足下に巻いて、人間でいうなら正座している風情なのです。鳴き声を立てるでもなく、人に甘えて来ることもなく、時々場所を変えては、やはりドームの方を向いて端座する。その姿は、柵を越えて原爆ドームのすぐそばまで近づけない人間たちの代わりに、ドームの近くで何かを思ってくれているように見えました。
広島平和記念資料館の「しつもんばこ」にこんな質問があります。
どうしてヒロシマとカタカナで書くのですか?
答えを引用させていただきます。
Q:どうしてヒロシマとカタカナで書くのですか?
A:
広島を「ヒロシマ」と書きあらわすことについてですが、使い方がはっきりと決まっているわけではありません。新聞では、たとえば、「ヒロシマの記憶」のように、平和や原爆に関連する記事において、普通の地名の広島と区別する意味で使っているそうです。広島市役所では、次のような場合に「ヒロシマ」を使っています。
意 味) 被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす都市であることを示す。
使用例)平和の分野におけるヒロシマの世界的な知名度やこれまでの取り組み…
全人類の共存という立場に立ってヒロシマの被爆体験を継承し、…
また、文学作品では、市役所などでの使い方とはちがった、作者自身の思いのこもった使い方がされていると思います。
質問とはすこしはなれますが、今一度、わたしたち一人一人が感覚をとぎすまして「ヒロシマ」という言葉のもつ重みを感じていかなくてはならないのではないでしょうか。
カタカナのヒロシマは広島の人たちが自ら「被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす都市であること」を固い信念をもって表明する言葉だったのです。
同じく核による甚大な被害を被っている福島県では、フクシマとカタカナ表記されることに強い抵抗感を抱く人も少なくないようです。
おそらく広島にもヒロシマというカタカナ表記を嫌う人はいるでしょう。それでも、被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす決意を示すために広島市は敢えてヒロシマという言葉を使っているのです。
広島と福島を比べようという意図はまったくありません。郷土の名前をどのように表すかは、それぞれの人々にとってのアイデンティティの問題に違いありません。Q&Aにあるように「感覚をとぎすまして」扱わなければならない問題だと思います。
ここではただ、広島市が強い決意を示すためにヒロシマという言葉を使っているということを知っていただきたいのです。
あともうひとつ。感傷的だと笑われてしまうことでしょうが、自分には写真の黒猫が、言葉にはならない声で「ヒロシマ…」とこころの中でつぶやいているように思えてならないのです。つづきがどんな言葉なのかは分かりません。でも、あの子はカタカナのヒロシマという言葉とともに、この場所でたくさんの人たちを見ながら生きて来た。そのことは間違いないと思うのです。
ヒロシマからの道。それはまず、カタカナ表記に込められた思いを自分のものにすることから始まるのだと思います。