あえてサブタイトルを付けるなら、
みにくいアヒルの子ではなかった火山弾
イーハトーブからはるか遠く、富士山のふもとに遊んだ時、御殿場駅の駅前で火山弾に出会った。あ、これだと思った。これこそ「かなしい火山弾」だと。
ベゴ石は、稜(かど)がなくて、丁度卵の両はじを、少しひらたくのばしたような形でした。そして、ななめに二本の石の帯のようなものが、からだを巻いてありました。
まさに卵の縁を平らにのばしたような形です。斜めの二本線こそないけれど、これこそ宮沢賢治がおそらく岩手山で目にした火山弾と同様のものなのではないか。
御殿場駅の駅前でこの火山弾に出会ったその時、すぐにでも小学校の頃に読んだ宮沢賢治の火山弾の物語について描いてみたいと思ったのですが、若干のためらいがありました。何しろ物語のタイトルは「気のいい火山弾」なのに、勝手に「かなしい火山弾」だなんて思い込んでいたからです。そのうえ、読み返してみると、物語の内容までずいぶん曲解していたのだと気づいたからです。
以下、物語のあらすじについて書いてしまいます。ネタバレ必至です。まず先に宮沢賢治の「気のいい火山弾」を読んでみてください。短い物語ですからぜひどうぞ。
みんなに馬鹿にされるベゴ石
ある死火山のすそ野のかしわの木のかげに、「ベゴ」というあだ名の大きな黒い石が、永いことじぃっと座っていました。
「ベゴ」と云う名は、その辺の草の中にあちこち散らばった、稜のあるあまり大きくない黒い石どもが、つけたのでした。ほかに、立派な、本とうの名前もあったのでしたが、「ベゴ」石もそれを知りませんでした。
稜(かど)のないあまり大きくない石ども(きっと火山礫でしょう)は、さんざんベゴ石をからかいます。
「ベゴさん。今日は。昨日の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたろう。気の毒だったね。」
「ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。」みんな大笑いです。
「ベゴさん。今日は。今度新らしい法律が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵のように、パチンと割ってしまうそうだよ。お前さんも早く逃げたらどうだい。」
「ありがとう。僕は、まんまる大将のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。どうも馬鹿で手がつけられない。」
まったくこんな調子です。小さな黒い石たちだけでなく、そのうちみんながベゴ石のことをからかうようになります。草花もベゴ石に生えた苔や蚊まで、野原じゅうのものたちがベゴ石のことを嘲るようになりました。それでもベゴ石はいつも気のいい返事で応えるばかり。だからみんなも図に乗ってエスカレートしていくのですが、ベゴの態度は変わりません。
ある時など、秋に黄金色の花をつけた野の草が、ぼくは金の冠をつけたけど、ベゴさんの冠は苔ですねなどとからかいました。ベゴ石が、もうすぐやってくる冬の雪が自分の冠なんだと本当のことを言うと、やがてくる冬枯れを思って野の花は打ちひしがれてしまいます。そんな野の花をなんとかなぐさめようとするベゴ石なのです。
そんな物語に急展開が訪れます。
向うから、眼がねをかけた、せいの高い立派な四人の人たちが、いろいろなピカピカする器械をもって、野原をよこぎって来ました。その中の一人が、ふとベゴ石を見て云いました。
「あ、あった、あった。すてきだ。実にいい標本だね。火山弾の典型だ。こんなととのったのは、はじめて見たぜ。あの帯の、きちんとしてることね。もうこれだけでも今度の旅行は沢山だよ。」
「うん。実によくととのってるね。こんな立派な火山弾は、大英博物館にだってないぜ。」
みんなは器械を草の上に置いて、ベゴ石をまわってさすったりなでたりしました。
「どこの標本でも、この帯の完全なのはないよ。どうだい。空でぐるぐるやった時の工合が、実によくわかるじゃないか。すてき、すてき。今日すぐ持って行こう。」
結末はシンプルではないのです
まるで「みにくいアヒルの子」みたいではないですか。みんなからさんざん馬鹿にされて、逃げ出した別の群れでも馬鹿にされたみにくいアヒルの子が、やがて自分が白鳥の子だったことを知る。
絵に描いたかのようなハッピーエンド。宮沢賢治の物語の中では、ほとんど唯一わかりやすい寓話だと、この話を読んだ小学生の頃の自分は感じていました。どんなにつらい思いをしても、自分らしく生きることでいつか評価される時がやってくる。物語を読みながらベゴ石に感情移入している子供の自分がいたかもしれません。
読者が少し大きくなれば、人間の価値は量りがたく、烏合の人々に付和雷同することを警告する物語として読むこともできたでしょう。(みにくいアヒルの子をそう読めるように)
でもベゴはみにくいアヒルの子のように群れを逃げ出すことはしないのです。なぜなら動くことのない火山弾だから。
決定的なのはベゴの最後の言葉です。
「みなさん。ながながお世話でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」
このベゴの言葉に宮沢賢治の思想が結晶しています。それは「かなしみとよろびが完全に一体化した感情」の中で生きるということ。イーハトーブを見晴らす岩の上で、思いついた言葉が、火山弾の物語がこれまで思っていたのとまるっきりの別物として静かに火を灯しはじめたのです。
前回でも引用した松岡正剛の千夜千冊「900夜『銀河鉄道の夜』宮沢賢治」で紹介された賢治の最後の手紙を、その前文・後文の一部を含めて引用させていただきます。
おそらくこれを読んで慟哭しない者は、いるまい。できるだけ静かに、ゆっくり読まれたい。
あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが、それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。
私のかういふやうな惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します。
僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが、何か自分のからだについたものででもあるかと思ひ、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して、却って完全な生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、従って師友を失ひ憂鬱病を得るといったやうな順序です。
これが宮沢賢治の最期の言葉なのである。壮烈に懴悔を超えて、すべての表現者や活動者に突き刺さる。とりわけ、「慢といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します」は、痛いほどに強い響きを放っている。
みにくいアヒルの子ではなく、むしろ幸せの王子に近い物語。「虔十公園林」や「世界がぜんたい幸福にならないうちは」につながる賢治の心のコアに連なる物語。かなしくとも火山弾はやはり「気のいい火山弾」なのです。
よろしければ、こちらもどうぞ。
御殿場駅前の火山弾はひとりぼっちじゃありませんでした。それにたくさんの人たちに見てもらえます。でもこれが幸いなのかどうなのか、私には判ずることができません。
いつか必ず機会をつくって、イーハトーブの火山弾を探しに行きたいと思います。それが私のひとつの夢になりました♡ 富士山の火山弾の物語をおみやげに。