日本が太平洋戦争で敗戦した後、アメリカなど連合国軍に占領されていたという意識はすでに薄れてしまっているかもしれない。しかし敗戦国日本が主に米軍に占領されていたことは紛れもない事実だし、サンフランシスコ講和条約で主権を回復するまでの間、日本は軍隊を解体され、軍事技術や航空機についての研究を行うことすら許されてはいなかった。日本国政府はあったものの、占領軍、とくにアメリカを中心とするGHQの監督下に置かれた、ある意味で主権なき国だった。
その前提に立って、当時の日本にとって主権の回復がどれほど重大な出来事だったのかを想像してみてほしい。
サンフランシスコ講和の時代は、朝鮮戦争最中の時代だった。冷戦が厳しさを増している時代だった。その時代背景の中で日本は、占領軍が朝鮮へ出兵していって手薄となった国内の治安を維持する名目でアメリカの指導のもと後の自衛隊につながる組織を設置することになる。このへんはよく知られたことではあるが、その流れと並行して、日本が再び軍需国家となる可能性が、一時期なりともあったのだという。
中山茂さん「科学技術の戦後史」の次のくだりを読んだときの衝撃は忘れられない。
まず講和になって、航空機や原子力の方面で占領時代の研究禁止が解除になった。占領期には、原爆投下に対する批判を封じる出版検閲(プレスコード)のために、海外で何が起こっているのか十分情報が伝わらなかったが、その間にも米ソによる原水爆開発競争という冷戦は進行した。
(中略)
科学技術をめぐるこうした国際情勢の中に、新しく参入しようとしる日本の進路には選択肢があった。それは大局的には、軍事か民生かの選択である。
引用元:中山茂「科学技術の戦後史」岩波新書 1995年6月20日
当時、日本の大企業は、戦後に断行された財閥解体によって細分化され、かつての面影もなかった。三井・三菱・住友・安田などの大財閥に連なる企業はもとより、中島飛行機(富士重工)のような軍需産業も、それまでの航空機、軍艦、戦闘車両などの生産を禁止され、しかも組織は現在の中小企業以下のサイズにまで切り刻まれ、苦境に喘いでいたのが実情だった。
そこに朝鮮戦争による「特需」がやってくる。朝鮮半島へ日本の基地経由で送り出す兵器の整備から、朝鮮戦争から送り返されてくる破損・故障兵器の修繕などで、かつての軍需企業の多くが息を吹き返した。
あまつさえ、講和が成立し、占領軍の支配から独立を果たすことができれば、細分化された財閥企業の再統合の道も開けるし、何より軍需産業によって社業を立て直す見込みも現実味を帯びてくる。
旧財閥系の企業、そして戦時中に軍部の保護を受けていた企業は色めき立った。その様子を中山さんは次のように記す。
講和と兵器生産
講和が発効すると、その六カ月後にポツダム政令の兵器生産禁止項目が無効になる。時はまだ朝鮮戦争が続行中である。占領軍からは講和発効以前の五二年三月に兵器生産禁止令の緩和についての覚え書きを示され、さらに四月には占領軍調達の兵器・航空機生産の許可権限を日本政府に以上する旨、通産省に連絡があった。通産省は戦時中の軍需省の後がまだったからである。
従来は兵器生産が表向き禁止されていたため、「汎用品」と称して、完成兵器以外の戦争必需品にその特需は限られていたが、兵器生産が表向きにできるとなると、迫撃砲やその砲弾の特注も来た。ただ、それは銃砲弾や小火器類に限られ、原子力のようなハイテク兵器の注文はなかったし、また日本にその技術力もなかった。
朝鮮特需で味をしめて日本の産業界は、講和成立後もその需要を欲した。朝鮮特需は戦争による急な一時的需要に応じるものであったが、これからは戦争の帰趨と関係なく、冷戦が続く限り、アメリカから新特需と称して、恒久的な軍需があるから、それを受けようと言う機運が高まった。さらに兵器は東南アジアの諸国にも売れる可能性がある。そこで経団連では八月に「防衛生産委員会」を組織して、その研究に当たった。再軍備の可否がしきりに論壇で闘わされていた頃のことである。
引用元:中山茂「科学技術の戦後史」岩波新書 1995年6月20日
動いたのは企業ばかりではなかった。国の産業政策を担う通商産業省(現在の経済産業省)もまた、軍需工業再生に向けて積極的に動き出した。ほとんど経済界とタッグを組んでの独断専行に近かったことを匂わせるこのくだりの筆致には戦慄すら覚える。
通産省も兵器生産路線を推進しようとし、五二年七月には輸出兵器の生産許可方針を決定して九月には兵器産業を重要産業に指定した。一〇月に「兵器等生産法要項」を決定し、再軍備に対応した軍需産業、航空機産業を復活することが決定された。かつて来た道への復帰の可能性が十分ありえたのである。兵器生産はこれまで取り締まりの対象であったのが、保護推進の対象に変わった。
引用元:中山茂「科学技術の戦後史」岩波新書 1995年6月20日
すでに平和憲法はあった。
だから兵器生産は取り締まりの対象だった。しかし、国策による支援の対象へと変貌をとげつつあったのだ。誰によって? 通産省の役人たちと経済界の人々によって。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
引用元:日本国憲法 前文
その国家にあって、兵器産業の復活、それすなわち、国内外に向けて兵器を製造し販売し、もって世界の平和を紛糾させる物資によって金儲けを行なうという発想であり、日本国憲法の精神にまったく反している。
しかし、講和すなわち日本の再独立が果たされた当初には、ほんの数年前に惨たらしい敗戦を経験した日本の国民の中、あるいは財界にあるいは官界に、再軍事国家化を目指す動きの萌芽が現実にあったということなのだ。法案の要綱まで策定されていたのだから、これは紛れもなく本気だったということだ。
しかし誰もが知るように、日本はそこで再軍事国家化の道を歩み始めはしなかった。いったんはここで平和憲法の示す方向へ立ち返ったのである。それはなにによってか。
中山さんの著作が記すその経緯は、ある意味で非常に恐ろしいものとも受け取れる。
しかし結局大蔵省の段階でストップがかかった。兵器生産は戦況によって好不況があり、安定しないから、リスクを常にともなうものであり、そうしたギャンブル的な業種は国費をもって支えられない、というのがその理由である。
通産省は日本の産業の復興のために、輸出産業の育成を求めていたのであって、軍備そのものがその目的ではない。結局あきらめて、市場向けの民生用製品生産路線を採ることになった。通産省はアメリカの軍部ペンタゴンと違って、何がなんでも防衛軍需生産というのではなく、軍需であろうと、民需であろうと、国内産業の育成を省是としていたから、以後通産省は方向を民需の方に絞ってゆく。講和になって、日本が自らの路線を選べることになったとき、戦前の路線に復帰する兆しがほんの一時期あったことのしるしである。
引用元:中山茂「科学技術の戦後史」岩波新書 1995年6月20日
日本は平和への理念によって、再び軍事国家となる道を選ばなかったのではなく、それはあくまでも大蔵省(現在の財務省)による、「ギャンブル的な業種は国費をもって支えられない」という意見によるものだったというのだ。言い換えれば経済的合理性が乏しい業種だから国として支援することはできないということに過ぎない。「経済性に止まらない必然性がある」などというご託を言い出す官僚が当時いなかったことを、日本の歴史に対して心から感謝したいと思う。
ところが昨今、武器輸出に関して経団連が積極的な発言を行なっている。新聞報道によれば、次のような提言が行なわれたとさえいう。
提言では、審議中の安全保障関連法案が成立すれば、自衛隊の国際的な役割が拡大するとし、「防衛産業の役割は一層高まり、その基盤の維持・強化には中長期的な展望が必要」と指摘。防衛装備庁に対し、「適正な予算確保」や人員充実のほか、装備品の調達や生産、輸出の促進を求めた。具体的には、自衛隊向けに製造する戦闘機F35について「他国向けの製造への参画を目指すべきだ」とし、豪州が発注する潜水艦も、受注に向けて「官民の連携」を求めた。産業界としても、国際競争力を強め、各社が連携して装備品の販売戦略を展開していくという。
引用元:経団連、「武器輸出を国家戦略として推進すべき」提言を公表 | huffingtonpost 2015年09月11日 09時16分
戦前と戦後では、たとえ同じ企業体であったとしても、その社内風土も思想も同じではないと確認した上で敢えて指摘するが、戦前から現在まで続く企業のほとんどがかつて軍国日本の時代に軍部と深い関わりを持ってきた。
今日も国産戦車の製造を担っている三菱系のメーカーはもとより、トヨタ、日産、日野、いすゞなどの自動車メーカーはおしなべて、その草創期には軍用自動車の生産で成長してきた会社だ。隼や疾風で有名な中島飛行機の後身が富士重工だということは先にも述べたところだが、自動車産業以外でも、陸海軍のレーダーや逆探知装置など先端電子兵器の開発製造を担ったのは、日本電気、東芝、富士通など現在の大手電気機器メーカーに他ならない。海中の潜水艦を探知する高性能な磁気探査器をソニーの前身である会社が開発したことも有名だ。現在からは想像もできないほど民需が弱かった日本では、戦前戦中に身を立てることに成功した企業のほとんどが軍需がらみという現実がある。
そんな日本の企業群はいま、世界で苦境に立たされている。自動車も先行き曇りマークだし、電気電子関連は雨模様。経済界の牽引車たる有名企業が青息吐息なのは、まさしく財閥解体で企業が細分化された上、輸出まで制限されていた占領期の状況にも似ている。裏返せば、この時期に経団連が防衛装備品の輸出の必要性を喧言するのは、なんとかして活路を見出したいという苦しさの現れなのかもしれない。
しかし考えてもみてほしい。日本の名だたる企業が兵器を世界に向けて輸出するようになれば、「お父さん(あるいはお母さん)の会社だって兵器を輸出しているのだから、戦争反対なんて言ってくれるな」というムードが日本中に蔓延しかねない。たとえ憲法の趣旨にそって戦争はよくないと主張したとしても、世界からみれば二枚舌と判断されてしまうだろう。「お前たちが輸出した武器のせいで世界中で多くの犠牲者が出ているのに平和主義とは聞いてあきれる」と。
ビジネスとしてみても成算は薄い。たしかに日本の優秀なビジネスパーソンは世界中で商談を繰り広げるだろうが、後発である軍需産業は必ず世界のあらゆる場所で熾烈な受注競争に巻き込まれ、先発組、つまりはアメリカを中心とする軍産複合体による多国籍業と間に軋轢を生じ、単に商談に敗れて撤退などということでは済まないダメージをこの国にもたらすことになるだろう。
日本はいったんは、「死の商人」となることを踏み止まった歴史を持っているのだ。いまこそその歴史を再確認し、できることなら、当時の大蔵省が経済界と通産省に注文を付けた「リスキーだから」といったことではないもっと正当な理由によって、かつて来た道を思い止まってくれることを切望する。
※1年ほど前の下記の記事を参考に、再構成しました。