岩手県花巻市にある宮沢賢治童話村。入口ゲートを抜けた先には赤松の木立が輝いていました。その足元にあるのは、あれはもしかしたら、やまなし?
「どうだ、やっぱりやまなしだよ」と蟹のお父さんが言った通りに、白い花崗岩に物語の一節が刻まれていました。
なんだか少し洋梨にも似た姿のやまなしです。このオブジェの右手には、ほんとうに蟹が住んでいそうな小さな川も流れていて、川の周りの木立の中には実際に「やまなし」の木もあるそうです。
というわけで、今回は「やまなし」というお話を読みながら、賢治さんと歩いてみましょうか。小学校の教科書にも載っているそうだから、読んだことがある人もきっと多いかもしれませんね。
印象的なのは、物語の冒頭に登場する人物のこと。
やまなし
宮沢賢治
小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。
一、五月
二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳ねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
クラムボンって誰なのでしょう。わらっているくらいだから、人の名前なのは間違いないと思うのですが、物語には冒頭に登場するだけ。そもそもこのお話に出てくるのは二匹の蟹の兄弟とお父さん、魚とカワセミ、そしてやまなしだけなのです。
続きを読んでいきましょう。
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻って下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。
波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。
魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流の方へのぼりました。
『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』
弟の蟹がまぶしそうに眼を動かしながらたずねました。
『何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。』
『とってるの。』
『うん。』
クラムボンはどうしてかぷかぷわらっていたんでしょう。クラムボンはどうして死んでしまったのでしょう。殺されたんでしょう。
ねぇ、賢治さん?
考え事をしている間もなく事件が、大事件が起きてしまいます。
そのお魚がまた上流から戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾も動かさずただ水にだけ流されながらお口を環のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』
その時です。俄に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなものが、いきなり飛込んで来ました。
兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。
お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』
『そいつの眼が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』
泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。
一度読んだら忘れられないシーンです。カワセミの描写は倍くらいの言葉で表現されていたような印象があったのに、実際は「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなもの」という短く描かれていたのですね。水中に突き刺さって、空気の層を身にまとったまま魚を捕って飛び去っていく一瞬の様子が、恐ろしいほど鮮やかです。
(途中に余計な言葉を挟んでいると調子が狂ってしまうでしょうから、後半はそのまま引用します)
二、十二月
蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。
白い柔かな円石もころがって来、小さな錐の形の水晶の粒や、金雲母のかけらもながれて来てとまりました。
そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶の月光がいっぱいに透とおり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。
蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。
『やっぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』
またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』
『それは兄さんの方だろう』
『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きそうになりました。
そのとき、トブン。
黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金のぶちがひかりました。
『かわせみだ』子供らの蟹は頸をすくめて云いました。
お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました。
『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂いだな』
なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。
その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るようにして、やまなしの円い影を追いました。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。
『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』
『おいしそうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝よう、おいで』
親子の蟹は三疋自分等の穴に帰って行きます。
波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石の粉をはいているようでした。
*
私の幻燈はこれでおしまいであります。
蟹たちにとって天井であり、空であり、水の外の世界との境界面である水面からやって来るカワセミとやまなし。鋭くて禍々しいものと、不格好なほど丸っこいけれどいい匂いのするやまなし。その対比が物語のテーマなのかもしれません。
でも、物語の最初のところにクラムボンが登場したのはどうしてなのでしょう。
そのことがとても気になります。クラムボンは誰なのか。
先週読んだせいもあるのでしょうが、虔十公園林に登場する虔十にも通じるものがあるような気がしてならないのです(物語が発表された時期や順番は違いますが)。虔十は物語の中で殴られて、そしてその年のうちにチフスであっさり死んでしまいます。虔十を殴った男もやはりチフスで死んでいます。突然の、しかしあまりにも味気ない死というものが、「お口を環のように円くし」た魚と虔十、そしてクラムボンに共通しているように思えるのです。では、それは何なのか――?
虔十が「Kenju」で賢治につながるかもという説を前回ご紹介しましたが、クラムボンはひっくり返すとボンクラン、ボンクラな誰かという説もあるようです。
人間である虔十の中に自然があったように、クラムボンの中にも自然と人間の関わりがあるのかもしれません。考え過ぎかもしれませんが、クラムボンが誰なのかが、この物語のカギであることは間違いないでしょう。
そんなことを考えながら賢治さんと歩いていたら、ずっとずっと遠くまで行けそうな気がしてきます。
*
私の与太話はこれでおしまいであります。
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