【北海道南西沖地震から22年】津波は矢のように早い

とにかくおばさんは、逃げろ!逃げろ!の一点張り

 撮影のため、たまたま奥尻島に行っていてこの大津波に遭い、九死に一生を得た水中カメラマンの中村征夫さんは、その体験をつぎのように語っている。その夜、スタッフとともに全滅した青苗地区の岬から数軒目の民宿の別棟に泊まっていたのだという。

 宿泊に際して民宿のご夫婦から十年前の日本海中部地震のときの津波の話を聞かされ「津波が来たら高台に逃げるように」といわれていた。然し、都会生活の身には、津波というものがもう一つピンと来なかった。何日かしてから突然、地震になった。経験したことのない激しい揺れだったが、立ちすくんだ感じでそのままでいた。津波の話を聞いていたが、どこかで高をくくっていたのだと思う。ところが民宿のおばさん、泊まっている別棟まで這うようにしてやって来て、逃げて! 津波が来るから逃げて! と怒鳴る。ああ、そうだったかと思って玄関で靴を履こうとしていたら、今度は、靴なんか履いている場合じゃないよ! と、またも怒鳴るように急き立てる。とにかくおばさんは、逃げろ! 逃げろ! の一点張りで、その勢いに圧倒されるように、着の身着のままで飛び出した。「突然、波が僕のほうに向かって盛り上がって来ました」。実にきわどいところだった。

引用元:1996・3『北海道南西沖地震・奥尻島記録書』奥尻町、2004・11・29『岩手東海新聞』 | 山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

水中写真の第一人者、中村征夫さんの生々しい証言が22年前に発生した「北海道南西沖地震」の瞬間をまざまざと感じさせてくれる。

北海道南西沖地震は、1993年7月12日(月曜日)午後10時17分頃、北海道南西沖を震源として発生したマグニチュード7.8の大地震である。地震の規模は関東大震災に匹敵する大きさで、震源から近い北海道の奥尻島では震度6の烈震、江差町や小樽市、寿都町でも震度5を記録。地割れや陥没、崖地崩壊によるホテルの倒壊、液状化など地震の揺れによって大きな被害をもたらしました。発震から3分から5分というごく短時間の後に、津波の第一波が奥尻島を襲った。

津波の規模は極めて大きく、津波の遡上高は震源側の島西部の藻内で29m、同じく米岡で22m、震源の反対側の東岸でも、北海道沿岸に到達後反射した津波によって初松前で21mなど。後の調査では、30mの遡上高の報告もある。

「北海道南西沖地震災害と復興の概要 ~奥尻島の被災と復興~ | 北海道水産林務部漁港漁村課」より引用

島の南端の青苗地区では、2m~5mの津波が1時間に13回以上襲来したという。また青苗地区の津波は、岬の西岸・東岸の両側から押し寄せ、さらに火災も引き起こしたためこの地区の被害は極めて大きくなってしまった。

この地震津波による死者・行方不明者は230人、そのうち奥尻島での犠牲者は202人に上ったとされる。

冒頭紹介した「津波てんでんこ」からの引用を続ける。

助かったのは全く民宿のおばさんのお陰だった。こんなわけで自分は九死に一生を得たが、その体験からいうと「ちょっとした油断のあった人が波に呑まれたのではなかろうか。よく備えあれば憂いなしというが、日頃から、海岸では地震イコール津波と考えておくことが大切だと思った」と中村さんは振り返っている。

引用元:1996・3『北海道南西沖地震・奥尻島記録書』奥尻町、2004・11・29『岩手東海新聞』 | 山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

「北海道南西沖地震災害と復興の概要 ~奥尻島の被災と復興~ | 北海道水産林務部漁港漁村課」より引用

一瞬の判断が生死を分けた

いっぽう、逃げ出すタイミングのちょっとした差で亡くなった方もいる。

 その日の夕方、奥尻島の青苗に着いたある教材販売会社のSさんは、旅館で遅い夕食をとっているときに地震が起きた。すぐさま宿の主人が「津波が来るぞ!」と告げたが、Sさんは玄関を出たり入ったりしている様子だったという。宿の奥さんは「靴なんかいい。逃げるよ!」といってご主人とともに裸足で表に飛び出した。途中、近くに住む白内障の父(95歳)を見つけたので一緒に逃げた。高台まで走り、息をついて町を振り返ると、もう海水が渦を巻いていた。けれども、宿泊していたSさんの姿は見えなかったという。

引用元:『奥尻 その夜』朝日新聞社 | 山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

旅行者で地元の土地勘もなく、それ以前に津波への覚悟がなかったために起きた悲劇。その実相を「津波てんでんこ」の著者は、津波被害の悲惨を読者に伝えるため、さらに別の角度からえぐる。

 犠牲者名簿によるとSさんの死因は「青苗の病院前=脳挫傷」となっている。

 ついでながら、津波で死んだ人を、一般には「溺死者」と呼んでいるが、医学的には「水死」だけでなく、津波によって地面や建物などに強く叩きつけらたりすることによる「外傷性ショック死」とか「脳挫傷」「頭部骨折」などというものも少なくない。津波の威力はそれほど強烈であることを示している。津波後、北海道警察が身元を確認した二〇〇人の死因別内訳によると、うち「水死」が一四〇人、「圧死」が一七人、「脳挫傷」が一六人、「脊髄損傷」「複雑骨折」「全身打撲」「急性心不全」各三人、などなどとなっている。

引用元:『一九九三年七月一二日北海道南西沖地震全記録』北海道新聞社 | 山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

3点とも「北海道南西沖地震災害と復興の概要 ~奥尻島の被災と復興~ | 北海道水産林務部漁港漁村課」より引用(北海道新聞社の写真を含む)

東日本大震災の後、津波に流された後、がれきに掴まって漂流した後に救助されたり、あるいは泳いで助かったりといった「極めてレアケース」な出来事が報道された影響だろうか、津波が来れば泳いで逃げればいいと考える人、中には非常用のライフジャケットを勧める人まで現れたが、津波はただの水ではない。車も船もばらばらになった建物も防波堤の破片や海底にあった巨岩まで含めて、渦巻きながら激流のように人々に襲いかかってくるものだ。

津波に呑み込まれてしまったら、水に溺れて死ぬのではなく、脳挫傷、全身打撲、複雑骨折など、凄惨を極める最期を迎えるということ。その津波の恐ろしさを知らしめたのが北海道南西沖地震だった。

経験がプラスに働くとは限らない悲惨

冒頭の中村征夫さんの命を救ったのは、地震の中を這うようにして中村さんが宿泊している部屋までやってきて、とにかく逃げろと怒鳴った民宿のおばさんの行動だった。彼女がそんな行動をとったのは、10年前の日本海中部地震で発生した地震で、奥尻島でも死者2名の被害を出した記憶がしっかりと残っていたからだ。「津波てんでんこ」からの引用を続ける。

 この地震津波の後、奥尻島に出向いて聞き取り調査を行った東大社会情報研究所・広井脩教授らの『巨大地震と避難行動』(防災セミナー96)によると、やはり、逃げるときの判断と行動の違いで生死の別れるケースが多かったという。

 ある商店主(40歳代)は「就寝直前に地震に襲われ、津波を直感して、それこそパンツ一枚で、奥さんと子どもを連れて高台に避難」しているし、またある人は、まだ揺れている間に二階に駆け上がって子どもと奥さんを連れ出しているし、更に、ある夫婦は、まるで短距離競走のようにして高台に向かって走ったとある。すべて十年前の日本海中部地震のときの恐怖の体験によるものであった。

引用元:山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

しかし、経験が裏目になるケースも少なくなかった。

「津波てんでんこ」の著者は、その悲惨を「歴史は繰り返された」と記している。

歴史は繰り返された

 ところが、一方では、体験がかえって仇になったケースもある。体験は、その教訓を汲み取ってつぎに生かすという点で非常に貴重だが、受け止め方によっては、それが裏目に出て油断になり、悲劇的な結果を生むということもある。

 前記、広井教授らの報告でも、全体的に見れば日本海中部地震津波の経験が、被害の減少に大きく寄与したことは間違いない。けれども、部分的には体験がマイナスに作用したケースもあったとしている。

 青苗地区にあるAさん(71歳)のお宅のkとだが、日本海中部地震の時、このお宅では経営している旅館の三階から、津波が押し寄せてくるのを眺めていたという。勿論、被害は無かった。今回の津波の晩には、仲人した縁で親しくしていた人がスナックを開店するというので、奥さんと娘さんのMさんの親子三人でパーティに出席していた。その最中の地震だった。だが、前の日本海中部地震のときの経験から「津波なんて大丈夫だ。大丈夫だ」といって、自動車で高台に向かう途中、家に寄るからと車を降りた。Mさんが引き止めるのも聞かずに。先に帰った奥さんの身を案じてのことだったと思われる。そして、遂には帰らぬ人になってしまった。Mさんは「本当に津波が自分のところまで来るとは思わなかった」と、父を車から降ろしたことを悔いていたという(『奥尻 その夜』)。Aさんも、行方不明者の一人として名簿に記載されたままになっている。

引用元:山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

Mさんを襲った悲劇は父を失うにとどまらなかった。

 そのMさんの夫であり、役場職員だったTさんも、この津波で命を奪われている。

 総選挙の準備で忙しく、その夜も帰るのが遅かったうえ、途中、友人の家に立ち寄ったTさんは、後日、自宅の近くで自動車の運転席に座ったまま発見された。潰れて裏返しになっている車をパワーショベルで起こしてもらうと、割れた窓から太い角材が車に突き刺さっていたという(前同)。死因は「脳挫傷」となっている。

引用元:山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

Mさんの悲劇を紹介した「津波てんでんこ」の著者は、「三陸津波の際にも――」とペンを進める。

 三陸津波の際にも、前の津波の経験から、此処は大丈夫だろうと高をくくって油断したが故に、津波に浚われてしまったというケースが、その度毎に、しかもあちこちに出てくる。そういう意味で、残念ながら歴史は、同じ悲劇を繰り返したことになる。

 日本海中部地震のときは、震後、津波が押し寄せてくるまで、奥尻島の青苗で約一五分の間(余裕)があった。だから、津波が来るとしてもまだ間があるだろうと勝手に思って、服を着替えたり、物を探したりして結局は逃げ遅れた人、これとは逆に、揺れの大きさから推測して日本海中部地震のときより震源が近い、従って津波も早く来るに違いないと正しく判断して、即座に全力疾走で避難した人。こうして、人それぞれの判断の適、不適が生死を分けた。いざというとき、地震で正しい判断と対処が出来るような津波知識を心得を身につけておくことは、いわば命の保障であることを示している。

 「歴史は繰り返された」といえば、津波の時は、海岸近くに住む人ほど不利であり、海辺から距離のある山手の人ほど有利なはずである。ところが、海岸近くに住む人が助かっているのに、有利なはずの山手の人が死んだというケースが意外にも多く、津波の度に、これも同様のことが繰り返されている。

 海岸から遠くにいることが油断を生み、着替えに手間取ったり、暗闇の中で金品を持ち出そうとして時間を費やしたり、走って逃げるべきところを、まだ大丈夫だろうと、歩いて逃げたりするからである。

 最も良くないのは、これも津波の度に繰り返されて来たことだが、一度は高台に逃げて助かったのに、途端に欲が出て、金品などを持ち出すべく、避難所から下がって家に戻るケースである。この津波の際にも、いったんは避難したものの車を出しに戻ったり、財布を取りに戻ったり、所有する船を揚げるといって戻ったり、ある人などは、繋いであった犬を放して来るといって戻って、それぞれ犠牲になっている。海岸から少々奥地であっても、津波はそれこそ矢のように速く、あっという間であることを知らないためである。「知識は命の保障」だというのは、こういう悲劇の繰り返しによる教訓でもある。

引用元:山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社 2008年1月25日

「前の地震では津波が来なかったから、ここは大丈夫だろう」「前の津波の時には、地震から津波までの間に飯を炊く余裕があったと言うから」「津波はまず海が異常に引いてから来るものだから」……

同じ話をいろいろなところで聞いた。悔しくても「歴史は繰り返された」と認めないわけにはいかない。

海岸に近い人は津波を逃れた人が多かったのに、少し海から離れた場所にいた人に被害が大きかった――。この話もまた、東日本大震災を経験した我々に突き刺さってくる。同じ話がどれほどあったことか。久之浜で、亘理町で、荒浜で、石巻で、女川で……

どうして同じ話を耳にしなければならないのか。津波の悲惨さを知る機会は何度もあったはずなのに。津波から逃れることの大切さを伝えてくれる「津波てんでんこ」のような本だって、情報だって、たくさんあったはずなのに。

そして、生涯を通して「津波てんでんこ」という言葉を世に広め続けた、同名の本の著者である山下文男さんの身の上にもまた、歴史は繰り返されてしまったのだ。

2011年3月11日、山下文男さんは陸前高田市の病院のベッドの上で罹災した。これまで続けてきた津波研究や津波に関する著作をまとめ、多くの人々に津波の恐ろしさ、津波からいかに逃げるべきかを伝えるべく「津波てんでんこ」が発行になって約3年後のことだった。

 「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」
 家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。映像で何度も見たインドネシアのスマトラ沖地震津波と同じだった。
 ドドーン―。ごう音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またもごう音とともに波が引き、何とか助かった。
 海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
 「こう話していると生きている実感が湧いてくる」と山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」

引用元:岩手日報 2011年3月17日

津波を生き延びた山下さんだったが、転院した盛岡の病院で2011年12月13日に逝去した。新聞の取材に対して「基本はてんでんこなんだが」「何もできなかった」など語った山下さんは、死にあたってきっと思い残すものがあったに違いない。津波研究者として、津波の啓蒙者として活動し続けてきたその上に、自らが津波からの奇跡的生還を果たしたのである。きっと、伝えるべきメッセージが臨終の瞬間まで脳裏を駆け巡っていたはずだ。

山下さんの思いも含めて、それを受け継いでいくのは私たちに他ならない。その時、忘れてはならないことは「歴史は繰り返される」ということだ。

東日本大震災の被災地で、命からがら津波から生き延びた人からは、こんな話を聞くことも多かったのだ。

「20年くらい前になるのかな、あの奥尻島の津波被害をテレビで見た時に、自分が住んでいる三陸沿岸が津波の危険地帯なんだということを再認識した」「同じことが自分の町でもいつか起きるんだと体が震えた」など。

しかし、再び、三度と歴史は繰り返されてしまった。

残念だが人間は愚かななのだと考えるしかない。人は過ちを繰り返してしまうというその前提にしっかり立脚しない限り、どんな対策も避難計画も継承活動もたちまちにして空文と化す。

受け止め、伝えていく私たち世代の責任は重たい。

最後に北海道南西沖地震で犠牲となられた多くの方々に哀悼の意を表します。