岩手県のとある町の東の方にある里山を歩いている時のことでした。そこは結構な坂道を上っていった先で、その頃はもう日も暮れかけて、辺りにはざわざわと枯れ草の音がしていました。山道のところどころには「クマに注意」という札も立てられておりましたので、内心ちょっとビクビクしながら歩いて行った先で、あろうことかこんな看板を掲げたお店を見つけてしまったのです。
もちろん私は、「鹿の横っ腹にタンタアーンと2、3発お見舞いしてやりたい」とか、白熊のように大きな猟犬が泡を吹いて倒れたのを「二千八百円の損害だ」とか言ったことはありません。そもそも猟銃も猟犬も持ったことはないのです。それなのに、人影もなく風が寂しく吹くばかりの山の中で、「注文の多い料理店」の前に行き当たってしまいました。もうこれは因果という他ないのかもしれません。
入口近くにぶら下げられた看板にも、確かに記されています。
RESTAURANT
注文の多い料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
このドアを開いて中に入るとどうなるか、もちろん宮沢賢治が書き残した小説でそのことは知っています。髪をきれいに梳かして、靴の泥を落とし、鉄砲や帽子や上着を置いて、体中に牛乳のクリームを塗ったくって、クリームは耳にも塗って、頭に酢の匂いのする香水をふりかけて……
私は自らが山猫の食事になるように、自ら進んで料理の下準備をしていくことになるのです。さらにその先の物語を思い出して、私ははっとしました。後世の人々が危機を回避するように、注意喚起の目的で賢治が残した物語では、最後に猟犬が生き返り、私を助けに飛び込んできてくれることになっていました。ところが最前も申したとおり、残念ながら私は白熊のような猟犬を連れてきておりませんし、そもそも飼ったことすらないのです。
何とかしてここから逃げなければ、私はRESTAURANTの奥でナプキンを付けて待ち構えているWILDCATの親方に、骨まで食べられてしまうに違い入りません。
建物の脇を時計回りにそっと逃げ出そうとしたらそこには!
恐ろしいWILDCATの肖像画が描かれていたのです。しかもレストランのみならず「お土産の店」とまでも。賢治が告発した当時からはもうずいぶんと時間が経っていますから、もしかしたら、持ち物や体の一部は土産品に加工されるようになったのかもしれません。WILDCATの肖像をよく見ると、まるで舌なめずりでもしているようです。
もう逃れることはできないのだと覚悟を決めて入口のドアの方に戻ってみると、
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
ああ、物語そのものです。あの「注文の多い料理店」の中へと吸い寄せられてしまったのです。ここから私は、
その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことに肥ふとったお方や若いお方は、大歓迎だいかんげいいたします」
という書き込みに歓待されているのだと勘違いしたり、
「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」
という言葉を、人気店だから忙しいんだと勘違いしたり、しながらいくつものドアを通っていってその先、最後のドアの前で、
「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。」
という書き込みを目にしてようやく自分の運命を了解し、がたがたがたがたふるえながら最後のドアに切り込まれた、
「いや、わざわざご苦労です。
大へん結構にできました。
さあさあおなかにおはいりください。」
という文字と、鍵穴から覗く青い目玉に対面することになるのです。
しかし!
白熊のような大きな猟犬ならぬ、白い軽自動車によって私の命は救われました。
おそらくWILDCATの親方は、何かの用事があってちょっと店を留守にしていたのでしょう。主がいない時に店に入ってこられると困るから、ドアが決して開かないように、きっと番犬の代わりに白熊のような軽自動車を玄関の前に置いて行ったのです。
注文の多い料理店は童話にしては恐ろしいし、一度読んだら忘れられない物語です。人間の卑しさや驕慢さを戒める物語とも言われています。危うく店内に引き込まれることなく、入口前で私は救われましたが、夕闇迫る山猫軒の前で、改めて賢治が残した言葉を噛み締めたのでした。
山猫軒
花巻市矢沢3-161-33 TEL 0198-31-2231
お察しの通り、私が山猫軒を訪れた時には、すっかり閉店後だったのです。お店では山猫ぞうすいや山猫すいとんセット、白金豚のカツカレーなどが人気なのだとか。宮沢賢治記念館に隣接しているので営業時間は9:00~17:00 (ラストオーダー 16:30)だそうです。今度は開いてる時間に行ってみなくちゃ!
ちなみに宮沢賢治の「注文の多い料理店」の中で一番気になるのはここら辺。
二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。それでもまだ残っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。
クリームをこっそりぺろっとやっちゃったのは、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついだ二人の若い紳士です。浅ましさが残酷に表現されているところなんですが、なんだか憎めない感じがするのです。
みなさんも、イーハトーブの森の散策の途中で賢治の物語に出会えますように。
よろしければ、こちらもどうぞ。
たぶん、お客さんが食べられてしまうことはないでしょう。たぶん、ですが……