あの有名な「一本桜」の花の散り際のころ、小岩井農場に行ってきました。
かつて放牧地だった鮮やかな緑の丘が伸び〜やかに連なる先には、荘厳にそびえる岩手山。丘と山と空の間に1人立つ桜の姿には気高さまでが感じられます。今年は岩手県でも桜の開花が早かったので、この日は花が見られたほとんど最終日。それでもこの樹を見るために、たくさんの観光客がやってきていました。小岩井牧場のまきば園あたりから徒歩でやってくる人もいてちょっとびっくりしましたが、カラマツと牧場の新緑の中を歩くのもいいかもなんて思い直してみたりもして。
なぜなら、小岩井農場は宮沢賢治とゆかりの深い場所。中学生の頃から岩手山に登ったり、牧場の辺りや森の中を歩きまわったり、農学校の生徒を連れて遠足に来たり。小岩井農場に関する作品も多く残しています。
その1つがまさに「小岩井農場」と題された詩。詩集「心象スケツチ 春と修羅」に収録された600行近い長編詩で、小岩井農場には詩碑も立てられているんですよ。
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
引用元:小岩井農場の詩碑
そうです、賢治はこの辺りの風景の中で、1個の有機交流電燈のように青い光を発する存在になって、ときどき口笛を吹いたり、「ふん いつものとほりだ」とか独り言をつぶやいたりもしながら、ある時は農学の求道者、ある時は地質学や火山学の学究、そしてまたある時は春の修羅として、この空気の中を歩き回っていたのです。
本部の気取った建物…
小岩井農場は明治から昭和初期に建てられた木造建築や酪農施設の宝庫。9棟の建造物が文化財に指定され、その半分以上が現役で使用されています。まずは賢治が詩の中で「本部の気取った建物が」と記した本部事務所。
西洋建築の特徴を取り入れた、いまでは瀟洒な建物ですが、賢治が生きた時代には、ずいぶん大きくて気取ったようにも見えたのでしょう。大正時代の頃の気分になって眺めてみたら、ちょっと違って見えるかも。なにしろ建物そのものは、賢治が見た頃と同じ建物なのですから。
上丸牛舎エリアの建物たち
それでもやはり惹かれてしまうのは、明治、大正、昭和、平成と使われてきた上丸(かみまる)牛舎エリアの建物です。
入り口の門から続く道の両側には桜の木。満開のころならきっと見事だったことでしょう(一本桜より標高が低い場所だから、ほとんどの桜は花を散らせた後でした)。
桜並木の奥で出会う建物は「育牛部事務所」。本部事務所とは違ってフレンドリーな感じがするのは気のせいか?
こちらは「一号牛舎」です。1934(昭和9)年に建てられた木造二階建の建物です。「30年後でも恥ずかしくない牛舎を」と当時の最新式の牛舎だったのだそうですよ。
いまでもちゃんと使われていて、搾りたての牛乳を集める車が来ておりました。
もちろん牛舎の中には牛たちも。当然です。牛が主だから牛舎なんですもんね。
牛舎には搾乳用の牛舎とか、分娩用の牛舎、子牛用の牛舎などいろいろな種類があるんだそうです。ここで初めて知りました。「一号牛舎」は搾乳のための建物です。
こちら、サイロが併設された「四号牛舎」は1908(明治41)年の建設。賢治が初めて小岩井農場を訪れたのが明治43年、賢治が中2の時のこと。そしてその年、中学の寮の同室だったのが、小岩井農場育⽜部技士の息子だったのだということです。
この牛舎は、きっと賢治も見ていたはず。かつては産室もあったそうですが、いまでは搾乳専用に改造されているそうです。
永々たる営みの香り
そしてやっぱり牧場といえばサイロです。
こちらの「一号サイロ」「二号サイロ」はそれぞれ1907(明治40)年、1908(明治41)年に建設されたレンガ造りのサイロです。現存する日本最古のサイロなんですよ。ちなみにサイロは、冬の間の牛たちの食料として、「サイレージ」という発酵させたエサを作る建物です。
上丸牛舎エリアを歩いていると、酪農家の仕事や生活のにおいがしてきます。あ、動物臭いってことではありません、生活の香りがするような光景。たとえばこれ。
土間がある倉庫には、ひんやりとした日陰に農機具やらが置かれ、物干しには軍手やいろいろな種類の手袋が干されています。建物の奥の方からは、作業している人の気配も伝わってきました。
そして、なんといってもこの建物の佇まいです。
修理しながら使われ続けてきた建物だからこその存在感。
不思議なことに、歩いているうちになんだかこの場所に馴染んでいっている自分に気づいて驚かされるのです。