天安門事件から26年。中国は特殊な国なのか?

日中国交正常化が行われたのは1972年のこと。10月にはパンダのカンカンとランランが上野動物園にやってきて、昭和の世は中国ブームに。それからしばらく、少年雑誌や学習雑誌でも、中華人民共和国を紹介する特集記事が組まれたりした。記事の中で印象に残っているのは、

中国の軍隊は「人民解放軍」といって人民のための兵士たちです。人民解放軍の兵士は庶民の尊敬の的で、子供達にとっても「大人になったら就きたい仕事」のダントツ1位なんですよ。

といった内容の記事。記事には広場で若者たちと親しげに語らう人民解放軍兵士たちの写真も添えられていた。

その「人民のための軍隊」が、人民に向けて銃を放ち、若者たちを戦車や装甲車で蹂躙したのが26年前に起きた天安門事件だった。少なからず衝撃を受けた。20世紀のこの時代に、しかも経済発展を目指すトウ小平に率いられて開放政策を進めていたはずの中国で、こんな野蛮なことが起きるとは!

「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」フランシスコ・デ・ゴヤ:プラハ美術館(Wikipediaより)

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1989年、東京・四谷

当時、週3ペースで立ち寄っていた居酒屋に、中国人留学生のアルバイトが何人かいた。新宿一丁目にある有名な中国料理店の2階が、中国人のための日本語学校だったこともあって、四谷界隈では中国人留学生の姿は当時からすでに珍しくなかった。

事件の起きた日、だったかその翌日だったか(調べてみると当日は日曜日だから、たぶん翌日か)、行きつけの居酒屋で中国人アルバイトのひとり(仮にX君と呼ぼう)が、「もう母国に帰れないかもしれない」と心配していた真っ青な顔を思い出す。生ビールのサーバーと瓶ビールのストッカーの間の狭い狭い暗がり、彼の定位置でもあったその場所で、X君は小さくなって立っていた。ただでさえシャイなX君が、天安門事件の後さらに言葉少なになったのは少々痛々しく思えた。

しかし数カ月後、X君は店から姿を消した。中国に帰ったのだとバイト仲間の中国人が教えてくれた。それからしばらくして、自分も引っ越したり転職したりしたため、その店から足が遠ざかった。さらに月日は流れ、何年経った頃か、飲み仲間からX君が帰ってきたという話を聞いた。見違えるくらい饒舌になっていたとも聞いた。

今から3年ほど前、10年ぶりくらいにその店に行ったら、当時から働いていたアルバイト女性の1人がまだ店にいたので驚いた。懐かしくなっていろいろおしゃべりする中、ふと思い出してX君のことを尋ねてみた。

「天安門事件の頃にいたX君って、今どうしているのかなあ。またこっちに来ていたって聞いたんだけど」

しゃべりまくっていた彼女が急に黙りこんだ。そして「私、そのこと話さないよ」とドアを閉ざすように言い切った。彼女が言わないと断言したのがX君のことなのか、天安門事件のことなのか、分からない。ただ、天安門事件から現在まで流れてきた長い時間(その間に中国は経済的に大躍進し、GDPは20倍以上になり、今では中国からの旅行者が日本のデパートの売上を支えるほどになっている、そんな時間)を経ても、正面切って話ができないことがあるということだけは思い知らされた。

市民の虐殺を行ったのは国軍ではなく王の軍隊

天安門事件の後、「中国では人の命が軽い」という言葉をいろいろなところで聞くようになったように思う。天安門事件そのことについてはもちろん、微罪で死刑になることについて糾弾する人権派コメンテーターの言葉としても。

人間の命に軽い重いなどあるはずないと思いながらも、もしかしたらそういう面もあるかもしれないと感じないでもない。たとえば、ずっと昔の歴史上の出来事を思い浮かべてみる。

数世紀前、革命の嵐が吹き荒れていたヨーロッパでも人民が武力制圧される事件はしばしば起きている。ゴヤが描いた有名な「プリンシペ・ピオの丘での虐殺」は、ナポレオン戦争時代にフランスの傀儡政権に反対して蜂起した民衆をフランス兵が銃殺する姿を描いたものだとされる。

しかし、軍が市民に発砲する虐殺事件は数世紀前に消滅したわけではない。1905年にロシアで起きた血の日曜日事件では、平和なデモを皇帝に請願して行進する労働者に対して軍が発砲。死者は数千人といわれる。

軍隊による襲撃を描いた絵画(Wikipediaより)

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20世紀になっても虐殺の歴史は続く。1976年には、南アフリカでソウェト蜂起と呼ばれるアパルトヘイト運動が起きた。武装した警官はデモ隊を鎮圧するため最初は催涙弾で、やがては拳銃や小銃で市民を攻撃。警察側の発表でも1,300人以上の死傷者を出す大惨事となった。

しかし、これらの歴史的事件は「人民の軍隊」が人民を虐殺したのではないと指摘することもできるだろう。侵略者の軍隊、あるいは国王の軍隊、あるいは差別政策を進める政府の武装警察が、「敵対する市民」を武力制圧したものだ。国民の軍隊ではないのだから、利害関係が衝突すれば時として一般市民に銃を向けることもある。歴史はそんな冷たい現実を教えてくれる、と。

では中国の人民解放軍はどうか。名称に「人民」という言葉はあっても、正確には人民の軍隊、あるいは国軍ではない。あくまでも中国共産党の軍隊である。どんなに人民に愛されていたとしても、究極的には共産党の軍である以上、人民が党にとっての敵対者という構図になれば発砲する。天安門事件をこのように総括する意見もある。

しかし、尊敬していた人民解放軍が人民の味方ではないことを突き付けられた悲劇という理解だけで足りるとはとても思えない。

市民・人民・国民と権力の関係

翻って日本のことを考えてみる。まず思い浮かぶのは20世紀に発生した数々の公害問題の犠牲者のことだ。

軍事的弾圧と公害被害では例として引き合わないと思われるかもしれないが、そんなことはない。水俣病では文字通り塗炭の苦しみの中で命を落としていく住民がいても、国や行政の対応は積極的ではなかった。公害発生企業の特定や公害の原因解明が進まない中で、さらに多くの住民がもがき苦しみながら亡くなっていった。

軍事力によって殺されたわけではない。しかし、日本人が日本の政府やふるさとの自治体によって見殺しにされたという点で構図は極めて類似する。

「因果関係が特定されない」との決まり文句がある。その後の公害事件で何度繰り返されたことだろう。いや、最初の公害と呼ばれる足尾鉱毒事件の昔からずっと続けられてきた、いわば無形文化財的な逃げ口上だ。先日、最高裁で原告敗訴が確定した食品公害カネミ油症事件でも、行政は事前に公害発生を食い止めるチャンスがありながら、企業側の説明を鵜呑みにして見逃したのみならず、住民被害が発生してから原因が完全に特定されるまでに半世紀近くを要している。

もうひとつ公害事件で繰り返されるのが「認定患者」による住民の分断だ。認定される人と認定されない人という線引きが行われることで、住民同士に根深い対立が生まれてしまう。「見舞金や慰謝料で家を建てた」「症状が軽いのにコネで認定された」といった話はほとんどの公害事件に共通する。住民の対立は公害への反対運動の求心力を削ぐことに直結する。同じ被害者同士でも対立があればまとまれない。被害者がまとまらなければ、権力を持つ国や行政、大企業と対等に交渉することは困難になる。(権力側にしてみれば被害者の小集団を個別撃破するという戦略が容易になる)

線引きは、原因企業の受益者(従業員や関連企業、原因企業によって支えられる地域経済など)と、そうでない人たちの間にも深い溝を生む。被害住民と直接被害を受けていない住民、同情的な人とそうでない人、経済的背景など様々な線引きが地域そのものを分断していく。水俣病の発生地では公害自体が解消した後も、地域の分断によって人のこころに加えられた被害が残っているという。地域では、船と船をロープでつなぎとめるという意味の「もやい」をキーワードに、人と人の関係を再生する活動が続けられているそうだ。

たしかに患者の認定や受益という問題が、住民の対立を招いてしまうことには、いかんともしがたい面もあるだろう。しかし、対立による悲劇がこれまで何度も繰り返されているのに、国や行政が対立を軽減しようと心を砕いたという話を聞かないのは、あまりに奇異ではないか。私たちの国であり、私たちの自治体であるはずなのに。

・公害を放置すれば住民被害が重大化するのは間違いない。
・患者認定によって差別や対立が生まれることは間違いない。
・住民同士の融和をはからず放置すれば住民の対立は深刻化する。

歴史の中で学んできたはずなのに、国や行政は放置し続ける。これは不作為の罪、未必の故意と呼ぶにふさわしいものではないか。国や行政はいったい何を守ろうとしているのか。

原発事故でも沖縄の基地問題でも同様の構図がワイヤフレームのように透けて見えないだろうか。市民・住民・人民・国民、呼び方はどうであれ、力のない個人を、国や行政あるいは大企業といった力ある組織が蹂躙する。そこに天安門事件との違いがどれくらいあるのだろうか。

天安門事件の後、中国の人たちが天安門事件について語れない状況にあることを人権弾圧とか言論の自由がないと非難するのは簡単だろう。しかし、私たちは足尾鉱毒の記憶を継承してきただろうか。国や行政が大企業をかばい、弱い立場の国民の生活も権利も生命までも奪ってきた公害事件について覚えているだろうか。いままさに進んでいる原発事故や沖縄の基地問題、災害被災地で発生している(敢えて言おう)「棄民」について、せめて語り合うことをしているだろうか。

天安門事件の直後、母国に戻れなくなることを恐怖したX君や、そのことは話さないと黙り込んだ彼女とは違う形で、私たちも口を閉ざしている。意識から消し去っている。風化していくがままに任せている。

天安門事件の前、中国の人たちは人民解放軍を敬愛していました。中国の人たちは今も自分の国を愛しているように見えます。

明確な軍事力による国民の弾圧はなかったかもしれませんが、日本の人たちは日本のことが大好きだし、今後もきっと大好きでいつづけることでしょう。

問題の根源がどこにあるのか、中国の人たちと天安門事件について話し合うことができれば、それはとても有意義な、もしかしたら人類的進歩につながることかもしれないと思うのだが、どうだろうか。