東北の復興と震災遺構について

もうすぐで3月11日。復興に向けて動いている東北で、震災遺構の解体か保存かで意見が分かれているという話を聞きます。以下、先月23日付の河北新報の記事です。

宮城県は1月、東日本大震災の教訓を伝える遺構として保存の是非が焦点となっている南三陸町防災対策庁舎について、時間をかけて冷静に話し合えるように、2031年3月までの県有化を町に提案した。家族や知人を震災で失った被災地の住民にとって、震災遺構はデリケートな問題で、オープンな議論は非常に難しい。

引用元:<南三陸防災庁舎>重い選択 揺れる心 | 河北新報オンラインニュース

震災遺構とは、震災の記憶や教訓を後世に伝える構造物です。津波などによって被災した建物を保存することにより、後世に震災のことを忘れずに伝えていこうとしています。

南三陸町防災対策庁舎は保存か解体かで揺れてきた震災遺構のひとつです。同庁舎は鉄骨の3階建てで高さが約12メートルあるものの、震災当時、15.5メートルの津波に襲われて43人の方が犠牲になっています。

当初、庁舎を保存する方向でしたが2013年9月、維持費の問題や地元の方々の感情も考慮して解体することになりました。予定では2013年11月に解体されるはずでしたが、記事に書かれているように県有化の検討もされており、結論はまだでていないようです。

解体すべきか保存すべきか。東北の方の声

河北新報の記事に、解体および保存についての意見があるのでご紹介します。まず、防災対策庁舎を解体すべきという意見についてです。

県は31年まで維持すると言うが、町に返還された後の維持費はどうなるのか。今後、町の人口はどんどん減る。新しい世代に重荷を背負わせることになる。
 遺族には一日たりとも庁舎を見たくない人が大勢いる。夜眠れない人、ボーっとして交通事故を起こした人、庁舎の問題になると感情を抑えられない人、みんな苦しんでいる。その気持ちを分かってほしい。
 庁舎で犠牲になった43人は無念だったろう。どんなに苦しんだろう。津波に流された家族の顔が目に浮かぶのがつらい。人が亡くなった場所は残すべきではない。「費用は負担するから解体させてほしい」とまで言う遺族もいる。

引用元:<南三陸防災庁舎>重い選択 揺れる心 | 河北新報オンラインニュース

一方保存については次のような意見があります。震災発生当時、町の職員だった方の話です。

 震災で2万人近くの方が犠牲になった。その多くは津波が原因だ。南三陸町は明治三陸、昭和三陸、チリと何度も津波災害を経験した。津波の恐ろしさを認識し、訓練を繰り返してきた。それでも800人以上の方が亡くなった。
 私は庁舎の屋上に上がり、津波に遭遇して初めて、こんな大きな津波が来るのかと思った。想定外だった。
 津波犠牲者の中には「ここなら大丈夫だ」と、積極的に避難しなかった方が相当いたのではないか。庁舎の隣にあった自宅で亡くなった私の妻もそうだったろう。
 だから、こうした大津波が、いつか必ず来るんだということを世界中の人に知ってもらいたい。津波注意報、警報が出たら、とにかく避難することを教訓にして、津々浦々で共有してもらいたい。それが犠牲となった方の命に報いる追悼であり、生き残った者の責任だと思う。
 庁舎の玄関の前に立って、屋上を見上げた時、こんなに高い波が実際に来たのかと誰もが思う。津波の恐ろしさ、避難の大切さがすぐ分かる。
 写真とか言葉だけでは伝わらない。実際に現場に来てもらい、見てもらうことが一番心に留まると思う。庁舎を現地にあのままの姿で保存することが、津波犠牲者を一人でも減らすことに役立つのではないか。
 私は庁舎で多くの同僚を亡くした。避難した屋上から妻のいる自宅が津波にのみ込まれるのも見た。庁舎にはつらい思い出がある。心が痛むし、うまく言えないが、もう津波で悲惨な犠牲者を出してはいけないという思いが強い。命だけは取り返しがつかない。自分が感じた思いを誰にも味わってもらいたくない。

引用元:<南三陸防災庁舎>重い選択 揺れる心 | 河北新報オンラインニュース

震災遺構について

震災遺構の保存の是非について、東北で震災を経験しておらず、また住んでもいない私が言うべきことではありませんが、それでも震災遺構の残すべきかどうかのニュースを耳にすると考えてしまいます。

もし私が東北で震災を経験し、今も住んでいるならば、恐らく家族や大切な人を失ったものを思い出させてしまうものは解体してほしいという思いが強いのではないだろうかと思います。

しかしその一方で、震災当時に東北にいなかった私は、震災からしばらく経った後に、震災遺構によって津波の恐さを知ることができました。

それは、地震発生から1年以上たった2012年の5月のこと。ゴールデンウイーク休みを利用して東北へ行き、岩手県・陸前高田から車で宮城県・塩釜市まで南下していた時のことでした。宮城県の気仙沼を車で走っていると、道路脇に大きな船がありました。まわりを見回しても海は見えません。

第18共徳丸。2012年5月撮影

その船が第18共徳丸という漁船であることは後から知りました。今は撤去されてもうありませんが、巨大な船が海から遠く離れた場所まで流されて鎮座している光景は異様で、あの時の驚きを今でもよく覚えています。実際の津波の恐ろしさに比べればほんのわずかかなものだったかもしれませんが、震災遺構を目のあたりにしなければ感じることは難しかったかもしれません。

東北の復興において避けて通れない震災遺構の保存の是非。解体してしまったら元には戻せないものだけに、東北からのニュースを耳にするたびにその難しさを感じます。

南三陸町防災対策庁舎

Text & Photo:sKenji